この高台は、はるか昔から、椿が自然に咲き乱れる景勝地として知られていました。鎌倉から室町へと移りゆく南北朝の時代には、すでに「椿山」(つばきやま)という名前で呼ばれていたことがわかっています。南方には早稲田の田園が広がり、西には遠く富士山が見えるこの場所は、江戸時代には多くの武家や町人が訪れる名所として繁栄しました。その光景は、浮世絵師・歌川(安藤)広重が描いた連作浮世絵「名所江戸百景」の中にも登場しています(「せき口上水端はせを庵椿やま」)。

さて、時は明治時代に下ります。明治維新を迎え、西南の役から凱旋した山縣有朋公は、東京近郊を訪ねては、たびたびこの椿山一帯に足を運んでいました。風光明媚なこの地を気に入った山縣公は、明治11年(1878年)に土地を入手し、本邸と広大な庭園を造り「椿山荘」と名付けました。

山縣有朋公は、幕末の動乱期に活躍し、明治維新後は政府の最高指導者として近代日本の礎を築いた人物です。内閣総理大臣や陸軍大将、元帥などを歴任し、政治家や軍人として名を馳せました。山縣公は、80歳になるまでの約40年間をこの地で過ごしました。その間には、明治天皇や大正天皇をはじめ、政財官界の第一人者たちが訪れ、この椿山荘で重要な会議が幾度も開かれました。椿山荘はまさに、歴史の表舞台となっていたのです。

明治30年(1897年)に創られた「椿山荘の碑」には、この地と出会い、この地を愛した山縣公の感慨が刻まれています。たとえば、こんなふうに。

「そもそも世の山水を楽しむ者は、遠く離れた片田舎にもの静かな場所を探し求めてそのような場所を見つけるものだ。私もそのような場所を都に程近い所に見つけたのである。」

「後にここに住む者はどんな人物か分からないが、その人物も私のようにこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか。」

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