フジタが「秋田の行事」を描いたのは、米屋を営んでいた平野政吉の家の米蔵だった。

完成したのは1937年。制作当時は世界一の大壁画と言われたが、世界一だったのは大きさだけではない。それをフジタはたった15日間で仕上げたのだという。しかし、戦争がはじまったことにより、「秋田の行事」は完成したにもかかわらず、そのまま平野家の米蔵で眠り続けることになる。

さて、時は流れて30年後。この大壁画を平野政吉美術館に運ぶにあたり、大きすぎて米蔵から搬出できなかったというエピソードが残っている。ではどうしたか。なんと米蔵を壊して作品を搬出したというのだ。

当時を知る人はこう振り返る。「私が小学校2年生のとき、『秋田の行事』を運び出すために下米町1丁目の米蔵を壊して、日通さんが絵を運んでいくのを見ていた記憶があるもんね」「わしゃ、大壁画を馬車で運ぶ後ろから付いていった」などなど。評伝よりも、こうした市井の人々の記憶の断片のほうが、フジタの絵が確かにこの町で描かれたのだという事実をかえってリアルに伝えてくれる。

さて、これほどまでに「米」と縁の深い「秋田の行事」。絵の中にも米俵が描かれている。秋田は東北のなかでも夏は温暖な気候のため、太平洋側に比べると米がよく穫れた。しかし、湿度が高い気候で乾燥が不十分であることから、かつては「秋田の腐れ米」と呼ばれ、不遇の時代が続いた。技術の発達により、秋田の米が高い評価を得られるようになったのは大正時代に入ってからだったという。当時の生産者たちが米俵のなかにハガキを入れて消費者の声を聞くなどたゆまぬ努力を続けた結果、現在の秋田米があるのだ。

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