縄文土器の誕生以来、飛躍的な進化を遂げた縄文時代。人口も約2万人から最盛期には約25万人にまで増えていた。しかし、縄文時代の終わりごろに「異変」が起きる。そして、人口は約7万人にまで減少することになる。一体、何が起きたのか。「伊勢堂岱遺跡」と「大湯環状列石」が作られたのもまた縄文時代の終わりごろ。まさにそのとき、何かが起きていたはずなのだ。
時代を巻き戻そう。実は、縄文時代がはじまったのは氷河期の終わりで、温暖化がはじまるころ。気候が暖かくなるにつれて森が豊かになり、縄文人もまた発展していったのだ。しかし、縄文時代の終わりごろになると寒冷化がはじまる。すると、森の食べ物は不足がちになり、住んでいた場所に住めなくなる。そうして集落は解体されてメンバーは散り散りとなっていく。そのとき、各地で一斉にストーンサークルが誕生するのである。
もしかすると、離れ離れになっていく人たちを地域社会につなぎとめるための装置として、つまり、もともとは同じ集落のメンバーであったことを確かめあう集会所としてストーンサークルを作りはじめたのかもしれない。まるでお盆に一族が集まってみんなでお墓参りに行くみたいに。
しかし、ストーンサークルを作る文化は長くは続かなかった。同時期に一斉に作られはじめたストーンサークルは、約200年後に一斉に放棄されることになる。なぜか。確かなことはわからないが、世代が変わるにつれて形骸化してしまったのかもしれない。「ストーンサークルをきっかけにみんなで集まろう!」と言い出した世代から、次の世代、また次の世代に変わるにつれて、ストーンサークルを作ること自体が目的になり、しまいには「おれたち、なんでストーンサークルなんか作ってるんだっけ?」と考えるに至った。つまり、「うちの“ひいおじいさん”はあっちの“ひいおじいさん”と繋がりがあるんだよ」と言われても、「そんなこと言われても今はもう赤の他人だよ」と思うくらいに疎遠になってしまったのかもしれない。
これはもはや想像をこえた妄想である。あなたも自由に想像のその先へ旅してほしい。縄文時代の終わりごろに、なぜ縄文人はストーンサークルを作りはじめたのか。そして、なぜ途中で放棄されることになったのか。その答えに辿り着けるのは、あなたの想像力だけかもしれない。