縄文時代の死生観とは? これもまた答えを持っている人はいない。

そこで、縄文人はどんな暮らしをしていたのか。そこから話をはじめてみよう。

縄文人の住まいであった「竪穴住居」はその大きさからして、核家族で住んでいたのではないかと考えられている。しかし、竪穴住居は作るのが大変で核家族の人員で建築するのは難しい。そこで、複数の家族で協力しながら「ウチの家の次はアナタの家を作りましょう」と、集落が生まれ、絆が深まっていったのかもしれない。

そして、ストーンサークルが円の形であるように、縄文人の集落もまた円の形をしていた。つまり、竪穴住居が「何か」を取り囲むようにぐるりと建ち並んでいたのだ。では、真ん中に何があったのかといえば「墓地」である。ここに縄文人の死生観が感じられる。

死を忌み嫌って切り離そうとするならば、そもそもお墓を作らないであろう。むしろお墓はより身近な存在で、死をそばに置いておく世界観。もしかすると、死から生へと再生することを期待していたのかもしれない。縄文人は子どもが死ぬと土器に入れて埋葬した。その土器のデザインは女性をモチーフに股の間から顔が覗いていたりする場合もある。それはつまり、もう一度、母の胎内に戻して「生まれ変わり」を願う気持ちがあったのではないかとも考えられる。土器をバラバラに壊してから埋めることにも、もしかすると、再生に期待する想いがあったからなのかもしれない。

ちなみに縄文時代の終わりごろになると、墓地が集落の外に切り離されてストーンサークルが築かれていくことになるが、そのころは、竪穴住居そのものが見つかりにくくなる。ということは、墓地を切り離したのは寒冷化によって集落が分散していく中での苦肉の策。むしろ縄文人のゆずれない死生観として、墓地を中心に「再生を願うフェスティバル」をするために定期的に集まっていたのではないだろうか。

あなたは、どう思うだろうか。伊勢堂岱遺跡と大湯環状列石を比較しながら考えてみてほしい。

Next Contents

Select language