大湯環状列石は500年ほど使われた。といっても、2つの大きなストーンサークルは最初の200年間で完成して、そのあとの300年で「環状配石遺構」をたくさん作りはじめたらしい。
大湯環状列石はたくさんの集落が関わる大規模な共同事業だった。そう考えるとすれば「おれたちも作りたい」と途中参加を申し出た縄文人もいたかもしれない。しかし、2つのストーンサークルが計画性を持って集落ごとに担当する持ち場まで決まっていたとすれば、途中参加組が参加できるスペースはない。そんな彼らに与えられたスペースが環状配石遺構だったと考えることもできるのかもしれない。
また、それぞれのストーンサークルには「配石列」と呼ばれるものもある。大湯環状列石にあるさまざまな石を俯瞰して見ると、2つのストーンサークルは全体の一部でしかなく、まるでナスカの地上絵のように「何か」を描こうとしていたのかもしれない。たとえば、土偶? あなたにはどう見えるだろうか。