かつて、芦ノ湖に海賊がいた――という伝説は存在しないが、芦ノ湖には海賊船が走っている。フォーンっと湖畔に鳴り響く電子音は、出航を告げる現代の汽笛の音だ。
なぜ、箱根に海賊船? 海賊船を運航する箱根観光船の4代目社長がアメリカのディズニーランドの視察に行った際、海賊船のアトラクションを見て、閃いたそうだ。
この閃きは、見事に当たった。1964年、1630年代のフランスの戦艦「セント・フィリップス号」をモデルにした、ゴージャスな雰囲気の「パイオニア」が就航すると、大人気になった。その追い風を受けて、イギリス、フランス、スウェーデンの戦艦をモデルにした船が次々と建造された。
現在は、18世紀にフランスで活躍した戦艦「ロワイヤル・ルイ」、同じく18世紀にイギリスで建造された戦艦「ビクトリー」をモデルにした「ロワイヤルII」と「ビクトリー」が就航している。さらに2019年より、コンセプトを「戦う船から平和を守る船」に変えて、JR九州の「ななつ星」などをデザインした著名なデザイナー、水戸岡鋭治氏がデザインを手掛けた豪華絢爛な「クイーン芦ノ湖」も運航している。
どの船も、出航の際には汽笛を鳴らす。これは、船員へのメッセージになっている。安全のために、汽笛が鳴ったら、港とつないでいるロープを離すという決まりになっているのだ。
汽笛は通常1回だが、芦ノ湖では6月から8月にかけて、深い霧が降りて数メートル先も見えない状況になることがある。霧のなかで船を走らせる時は2分を超えない間隔で、汽笛を長く鳴らすというルールがあるそうだ。時には、天候が急変して20メートルから30メートルの風が吹く。そのなかでトラブルなく着岸するのが船長の腕の見せ所。
海賊船にまつわる、意外なエピソードがある。今回、話を聞いた室伏岳文さんの曽祖父は、箱根観光船の発起人だった。その息子のひとりは、海賊船が導入される前に就航していた大型観光船「足柄丸」の初代船長になった。そして室伏さんの父親は、現在、就航している「ロワイヤルII」の先代の船「ロワイヤル」の船長を務め、室伏さんは「ロワイヤルII」の初代船長だった。4代続けて芦ノ湖の船にかかわってきた人は、ほかにいない。
さらに、室伏さんの幼稚園からの同級生は現在「クイーン芦ノ湖」の船長を務め、その父親は、入れ替わりで引退した「バーサ」の船長だった。
芦ノ湖の船は、世代を超えて乗り継がれてきたのだ。海の男、ではなく、湖の男たちの物語。