外宮と内宮をつなぐ古市街道から、細い路地へ入って少し歩くと、趣のある麻吉旅館に出る。この宿の本館には玄関が4つも設置されていて、現在、お客さんを迎えるのは4階。その出入口からは見上げれども見下ろせども建物の全貌がわからず、女将に薦められ、出入口横の石段を下まで降りて振り返ると、威風堂々とした佇まいに目を奪われた。いくつかの建物が複雑につながった5階建ての構造。丘の斜面に沿って造られた建築様式は「懸崖(けんがい)造り」といって、京都の清水寺と同じだという。左右の棟は渡り廊下によって結ばれていて、これが麻吉を一層複雑にさせている。館内はまるで迷路のよう、探検するのも楽しい。
元々は花月楼麻吉という茶屋だったが、創業年ははっきりしない。江戸時代の町の地図にも名前が出ているが、戦争で絵画や骨董などを疎開させた先が空襲にあってしまい、古い書類も焼失してしまったという。それでも明治・大正期には界隈で第一級の茶屋であったことは確か。伊勢音頭の舞台を持ち、30人もの芸妓を抱えてにぎわった。
街道沿いが閑静な住宅街となった今、花街としての繁栄は想像しがたいが、全盛期には70軒もの妓楼が軒を連ねていたこのエリア。唯一現存し、その面影を伝えている麻吉旅館はおたからそのもの。夕暮れ時に提灯がともれば、往時の風情が漂う。あの渡り廊下を、いつ頃まで芸妓さんが歩いていたのだろうか。参宮で栄えた伊勢の、もう一つの歴史が浮かび上がる。
「伊勢でてっぺんのお座敷と、わたしどもは呼んでいます」と女将である上田聖子さんに案内された最上階は、聚遠楼(しゅえんろう)と呼ばれる33畳の大広間。回廊の眼下に懸崖造りの瓦屋根が連なり、その向こうに朝熊山のパノラマ、はるか二見の景色まで望むことができる。聚遠楼は明治時代に増築され、すでに100年以上が経過しているが、女将は祖母からの教えをそのままに「新座敷」と呼ぶ。古市のまちで繰り広げられた栄枯盛衰のドラマが、このお座敷に凝縮されている。「天井の高いこの座敷で唄う伊勢音頭は、声がよく通り、上手に聞こえたそうですよ。まだわたしが小さかった頃だと、毎日が宴会でした。今は建物がどうなっているのか、そこに興味を持って来てくれる人が多いです」と女将。参宮街道にあって、歩き旅の原点を求めて利用する人もいる。かつての喧騒とは打って変わって、聞こえるのは鳥の鳴き声と電車が通る音。心静かに過ごせる宿で、建物から時代の移り変わりを感じ、江戸から令和の伊勢の物語を味わってみたい。