「ぬれがらす」とは、空を飛ぶ濡れたカラスのこと。黒いカラスが雨に降られ、黒光りする様を思い浮かべて欲しい。伊勢河崎商人館の広々とした母屋を抜けると、そんな黒光りの光景が目に飛び込んでくる。ここは黒い板張りの壁に囲まれた中庭。建物は重厚な蔵の群れ。酒問屋の蔵が、大小さまざまに残され、往時の豪商の堂々たる気配を留めている。

黒い板張りは、「きざみ囲い」と呼ばれるもの。漆喰で白く塗った土壁を、さらに板張りをすることで二重に保護している。太平洋側で雨風の強い伊勢ではよく見かける外壁のスタイルだが、杉板を素のまま使ったものが多い中、河崎のきざみ囲いは一面黒く、まるで鎧のよう。ここ河崎は「伊勢の台所」として参拝者の胃袋を支えた問屋街で、水運の利便がいい川沿いにある。風が吹き渡り、湿気も多く、特有の黒光りするきざみ囲いが発達し、いつしかその壁を、人は「ぬれがらす」と形容した。この黒い塗料の正体は、煤と魚の油だという。防虫と防水効果が期待され、ひと手間かけて長持ちさせるという、先人のアイデアが生かされている。

このきざみ囲いには、もう一つ工夫がある。それは所々に打ち込まれている太いくさび。万が一、火事が起きれば、このくさびを抜いて、板張りが取り外せるようになっている。火に木材は禁物。また材が傷んだ場合にも、その部分だけを取り替えればいい。お伊勢参りと共に栄えた河崎のまちには、商人の知恵というおたからが秘められている。

「火事の時には、蔵の扉を閉める係と、きざみ囲いを取り外す係がいて、火が燃え移るのを防ぎました。命懸けで大切な商品を守ったんでしょうね」と商人館を運営する西山清美さんは想像する。古い火事の記録は残されていないが、母屋は明治25年の火事で建て直したものと聞く。対して蔵のいくつかは、江戸時代後期に造られたもの。火災から免れ、この地に残った。扱う品を蔵に納め、その蔵をより多く建てることが、商人としてのステータスだったに違いない。

今は資料室となった蔵の中へ入ってみると、ケヤキの太い梁、鉄の取手の付いた扉の厚みに圧倒される。ここには酒問屋の当主が集めた膨大な古文書や書籍が並び、蔵の2階には、1600年頃に商人たちによって使用され始めた日本最古の紙幣も展示されている。「伊勢の文化は神宮があってこそ。御師が全国をかけめぐり、神官はさまざまな史料を残しました」とスタッフの西城利夫さん。全国から伊勢を訪れた旅人の中には名だたる文人も。そこで文化の交流が生まれ、財力のある商人が旦那衆となって、そんな文化を支えてきた。神宮のある伊勢の地は、日本の中でも特別だったことを商人館が教えてくれている。「きざみ囲いにかける手間も財力があったからできたことでしょう。さすがに今は、いい塗料を使っていますよ。猫が寄ってきてもいけませんしね」と西山さん。

河崎のまちなみにノスタルジックな蔵や町家が連なる。古い建物が残るということは、いろいろな努力や想いがあってのこと。ここで暮らしてきた人々の記憶が刻まれている。

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