一度見たら忘れられない。
印象に残る斬新なデザインは、多くのアーティストたちをとりこにしてきた。
たとえば、忌野清志郎。
彼が天国へ旅立つときに身につけたのは、そんな生地で作られたお気に入りの舞台衣装だった。
身につける人をスターにする特別なデザインは、どんなふうに生まれてくるのだろう。

直観から生まれるアーティスティックなデザイン

北口本宮冨士浅間神社の入り口から、さらに富士山に向かって進んでいくと、林に囲まれた道沿いに宮下織物がある。宮下家は先祖代々、富士山を祀る浅間神社の神官も務めている家だ。

宮下珠樹さんは大阪で生まれた。この町の工場は、いわゆる「おばあちゃんの家」だった。デザイン学校で学んだ後は、就職も大阪で決める。そのまま大阪で暮らし続け、実家の仕事は、図版を描く部分だけ手伝えれば、と最初は考えていた。

就職一年目の夏休み。帰省していた田舎の家から大阪へ戻るとき、伯母さんが庭に生えていたコスモスを持たせてくれた。「大阪の家でも植えられるように」と、根っこがついたままだった。河口湖駅に着いて単線の小さな電車の座席に座った時、胸に抱えたコスモスの向こうにどーんと雄大な富士山の姿が現れた。その瞬間、珠樹さんに直観が降って来た。「あ、ここに住もう!」根っこの生えたままのコスモスと、あまりにも大きな富士山が、ここへ根を下ろすようにと珠樹さんを導いたのかもしれない。

一年半後、珠樹さんは会社を退職して移住する。会社ではレースのデザインをしていたので、織物のデザインはまったくのゼロからのスタートだ。最初はオーダーされたものの図案を描くので精いっぱいだった。2年目になり、ようやく織り独特の表現がつかめるようになってきた。宮下織物で扱うジャカードという織機(しょっき)は、複雑な文様を織れるのが特徴だ。どの部分を沈め、どの部分をピカンと光らせるか。織機の特徴を生かしたデザインもわかってきた。その後には、設計のできるコンピュータを導入する。コンピュータを使って柄が作れるようになるまでに、さらに2年かかった。自分ならではのデザインがようやく少しできるようになり始めたのは6年目。そこからが本当のスタートだった。

しかし珠樹さんは、再び人生の岐路に立たされる。すべてを根底から考え直したくなったのだ。荷物をまとめて、期限の無い旅に出掛ける。行き先も決めなかった。たどり着いた東南アジアの国々で、珠樹さんの足はなぜか生地屋にばかり向かった。マレーシアではろうけつ染めを体験した。ミャンマーでは工場に入り込んでみた。ネパールではサリーの生地をつくる店に入り浸った。どの国へ行っても、生地屋は面白い。3ヶ月が過ぎる頃には、織物づくりをしたい気持ちがみなぎっていた。帰りのチケットを捨ててさらに旅を続けることもできたけれど、「いつでもまた旅に出られるのだ」という自由な気持ちを手にして、珠樹さんは帰国を決める。帰国後、それまでの日常ががらりと変わった。珠樹さんのオリジナルデザインは自由に羽ばたき始めた。

宮下織物の布は、着る人を主役にする生地だ。その高級な質感と目を引くデザインは、ウェディングドレスや舞台衣装として使われている。新たなデザインのアイデアは突然降りて来るのだそうだ。あの日、富士山を見て唐突に移住を決めたときのように。なんでも決めるのは一瞬で、迷うことはない。「ここでしか織れないものがある」と珠樹さんは話す。富士山から湧き出している特別な水で染めた糸は、同じ色でも深みや艶、高級感がまったく違うのだそうだ。そして、このハタオリマチに代々受け継がれた織機が、繊細なデザインを可能にする。

第三土曜日には、そんな生地を1メートルから直接買い求めることもできる。豪奢な布の生まれる瞬間に立ち会えば、あなたにも直観が降りて来るかもしれない。

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