ヨーロッパで生まれたリネンは、親から子へ、子から孫へ代々引き継がれて愛されてきた。
とても丈夫で、使い込むほどにやわらかさが増して肌に馴染む。
アンティークのリネンには、それぞれの家族の歴史が刻まれている。
そんなリネンを、日本でも織ろうとしたハタヤがある。
繊細な絹を織っていた技術は、新しい素材にも引き継がれていく。

新素材のリネンで新たな販路を開拓する

テンジンは、日本ではまだリネンがあまり知られていなかった2000年頃から、麻の織物に挑戦を始めた。現在、生産の9割がリネンとなっている。先代までは、他のハタヤと同じように、絹でネクタイの生地を織っていたのだという。しかし、世の中は「カジュアルフライデー」や「クールビズ」など、ネクタイをしない流れに変わってしまった。不景気が続き、外国産の安い素材が流通するようになると、国内で物を作っても利益が出ない状態となってしまう。

ハタヤをついだ小林新司さんは、自社ブランドを立ち上げる決意をした。妹さんとそのご主人がリネンを好きだったことをきっかけに、これまでは扱っていなかった麻を織り始めた。しかし、今まで使っていた織機では、アンティークのリネンのような「耳」ができない。「耳」とは、織物の左右の端のこと。古いシャトル織機の場合、横糸を左右に往復させながら織っていくので、両端は糸が絡まり合い、縫製をしなくてもほどけない「耳」ができる。一方、現代で一般的に使われている高速織機では、横糸を通すたびにその端を切るので、このような「耳」ができない。そこで新司さんは、あえて古いシャトル織機を導入した。織るスピードは遅いが、横糸をピンと張っていく高速織機とは違い、テンションが掛かりすぎないのでふんわりと織り上げることができる。そうして生まれたのが、妹さんがデザインを担当するALDIN(アルディン)というブランドだった。

ネクタイの生地を織っていた頃は、百貨店に製品が並ぶまでの間にいくつもの問屋が間に入っていた。百貨店では1万円で売られているネクタイでも、その生地を卸すときには数百円にしかならない。しかし、リネンは新しい素材だ。これまでの流通経路にとらわれず、自分たちで消費者まで届けることができると、新司さんは考えた。まずは、思い入れのある商品をもっと多くの人に知って欲しい。新司さんはJRに直接交渉へ向かう。その熱意は届き、山梨へ続く中央線沿線のエキュート立川で売り場を設けてもらうことが決まった。けれども、その売り場は広く、テンジン1社の商品だけでは埋められそうにない。一緒に出店する仲間を見つける必要があったが、2012年当時はまだハタヤ同士の横のつながりが薄く、誰がどんなものを作っているのかお互いにほとんど知らなかった。

そこで新司さんは、「シケンジョ」の五十嵐さんのもとへ相談に向かった。それはちょうど、東京造形大学とのコラボ事業「フジヤマテキスタイルプロジェクト」がスタートしてから3年が経ち、新たな自社ブランドを始めたハタヤが増えてきた頃だった。五十嵐さんに紹介してもらい、ハタヤへ提案してまわると、「やってみたい」と手を挙げるところがいくつも見つかった。こうして、生産者が自ら消費者の近くへ向かう「ヤマナシハタオリトラベル」が始まった。生産者が自分で商品の説明をして、自分の手で売る。売り場のデザインも自分たちの手作りだ。この取り組みは大手の百貨店に注目され、特に営業をかけたわけではなかったが、都内を中心に次々にイベント出店をすることが決まった。

かつてこの町に何十軒、何百軒とあったハタヤは、競合するライバル同士だった。「フジヤマテキスタイルプロジェクト」や「ヤマナシハタオリトラベル」をきっかけに、ハタヤ同士のつながりができてきたのは、ここ10年程のことだと新司さんは言う。数年前、ハタヤの仲間を集めて、初めてみんなでバーベキューをしたことがあった。そのとき、光織物の加々美好さんは、「こんなこと、今までじゃ考えられない! 今日はすごい日だ」と語ったそうだ。ハタヤ同士のつながりはさらに発展し、今では毎年秋に機織りのお祭り「ハタオリマチフェスティバル」も開催されている。


オリジナルブランド、つまりは自分たちの「生き甲斐」を見つけたハタヤ同士が協力し合う。待っているだけではなく、自ら消費者に会いに行くようになった。忘れられたハタオリマチの名前は今、復活しようとしている。

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