母から娘へ愛情を伝える加賀の婚礼道具

踏みしめる畳の、い草の香りは心地よい。歩を狭め、一歩ずつ前へ進む。花嫁のれんが迫ってくる。もう引き返せない。手をひいてくれているスタッフが、のれんを丁寧にめくりあげる。

私が着ているのは白無垢だ。思ったより重くなかったけど、かつらのうえにかぶせられた綿帽子が、花嫁のれんに触れないか不安だった。和室と仏間の間にある敷居に触れてはいけない。のれんをくぐりながら、ほどよい間隔で、足袋を履いた足を前に出さなければならない。視線が自分の足元に向く。ああ良かった。ちゃんとくぐれた。目の前には仏壇がある。先祖にあいさつし、感謝する。その大切さが説得力を帯びた。

これは、私が花嫁のれん館で実際に白無垢を身にまとい感じたこと。この体験は誰でもできる。

「結婚式を挙げていなかった90代の母にサプライズで」「結婚式はウエディングドレスだったから和装を着て写真を撮りたい」「人前式(じんぜんしき)として、ここで結婚式を挙げたい」

期待をこめて、さまざまな世代のお客さんが花嫁のれん館を訪れる。

花嫁のれんは、「覚悟ののれん」とも呼ばれている。実家と嫁ぎ先の結界の役割もあるからだ。そして、「嫁ぎ先で娘が幸せになれるように」という花嫁の母たちの気持ちがこめられている。

嫁入り前に花嫁が実家を出て、花婿の家の玄関に着くと二本、実家の水と婚家の水が入った竹筒がある。花嫁が玄関先でカワラケという杯を手にすると、仲人が同時に両家の水をカワラケに注ぐ。花嫁がその水を飲むと、仲人はカワラケを割る。割れたものはもちろん元に戻らない。これは「花嫁はもう実家に帰れません」という意味があり、「合わせ水」と呼ばれている儀式だ。合わせ水を終えた花嫁は花婿の家に入り、親族代表の人に挨拶した。手をひかれながら歩き、花嫁のれんをくぐって仏間に入り、仏壇の前で挨拶をする。その後、のれんとふすまを外し、花婿の家で結婚式と披露宴が行われた。

挙式を終えて1週間ほどすると、花嫁のれんの役目は終わる。箪笥にしまわれたまま何十年もの時が流れるのだ。昔は娘ひとりにつき一枚だけだったが、今はお祭りで飾ったり、姉妹の婚礼で使用したりすることもある。のれんをくぐる風習は変わらないが、のれんのあつかいは時代と共に変化を遂げている。

その誕生は江戸末期から明治初期頃と言われている。明治初期ののれんの生地は木綿。藍色や鼠色、茶色等、自然色で染めていた。柄は鶴亀など縁起の良いものが多く、趣があるのが特徴だ。花嫁のれん館の展示室には、明治から現在までの花嫁のれんが展示してある。現在に近づくにつれて、だんだんとのれんの柄は華やかに、色は鮮やかなものになっていく。生地も木綿から絹に変わった。染めの手法は加賀染と加賀友禅。

ガイドさんから興味深い話を聞いた。花嫁のれんは、結婚した女性が一生に一度しか使わないがゆえにその存在を忘れていた人も多いというのだ。それなのに、なぜこんなに立派な花嫁のれん館ができたのだろうか。理由は、花嫁のれん館のある、一本杉通り商店街にあった。


私が一本杉通りを歩いたのは、雪の積もる日だった。明るい日差しが雪と歴史ある店舗を美しく映し出していた。店舗のうち数軒は、国の登録有形文化財に指定されている。通説では600年以上の歴史があるという一本杉通り。

天正9年(1581年)、織田信長より能登の一国を与えられた前田利家は、川を境に東を職人町、西を商人町として整備した。街道筋に商店が立ち並ぶ一本杉通りは、商人町の中心的役割をになった。一本杉通りは能登でもっとも大きな商店街である。近隣では「能登の銀座」と呼ばれていた。発展を続けていたが、戦後、自動車の普及に伴い道路整備が行われ、郊外にたくさんの商店ができ一本杉通りの客足は遠のき始めた。当時70軒以上あった商店は、今や40軒に満たない。そんな中、店主は工夫を凝らしたが時代の流れからは逃れられない。一本杉通りは廃れていく。

転機は2003年に訪れた。全国でまちおこしに関わっていた一人の雑誌編集者・佐々木和子が、取材で一本杉通りに店を構える五人の女将と知り合った。彼女は能登が好きになり、何度か遊びに来るようになる。ある夏、佐々木さんは七尾湾に面した石崎町の石崎奉燈祭に足を運んだ。能登地域で数多く行われるキリコ祭りの中でも勇壮華麗なことで知られるこの祭りでは、毎年花嫁のれんを飾っている。知識として、女性がお嫁に行くときにくぐるのれんがあることを知っていた佐々木さんだったが、実際に目にして感動をおぼえた。

「あなたたちには、これがあるじゃない」。お嫁にきて以来、家の中でずっと眠っているのれん。これが客の呼べる転機になるかもしれない。女将たちは目がさめる思いだった。「のれんを店先に展示してみませんか」。一本杉通りの店舗と民家に声をかけた。

ただ花嫁のれんの値段や質はさまざま。豪華さや金額を比べられて、品評会になるのではと心配する人もいたが、それでも多くの人たちの協力により、初ののれん展は開催が決まった。

2004年4月29日、箪笥からのれんを取りだし店頭や民家の前に飾った。昭和40年代から人通りが少なくなっていた一本杉通りがストリートギャラリーになる。朝から多くの人が歩き始めた。花嫁のれん見たさに近隣の住民たちが訪れたのだ。訪問客の中から「私の家ののれんも飾ってもらいたい」という声があがった。翌年、再び展示が行われることとなる。

実は「花嫁のれん」という名称はもともとなかった。七尾では「のれん」「嫁のれん」、金沢では「花のれん」と呼ぶ人が多かったそうだ。「花嫁のれん」という言葉が定着したのは、のれん展2回目のことだ。

雑誌『銀河』(文化出版局、現在は廃刊)は、花嫁のれんの特集を組んだ。それを読んだ『銀河』の根強いファンが、全国から花嫁のれん見たさに一本杉通りへ来た。人との繋がりが実を結んだ。各店舗はこぞって『銀河』を店に置き販売した。花嫁のれん特集が組まれた号はみごと完売。七尾の近くには人気の和倉温泉がある。温泉のついでに一本杉通りに寄り、「花嫁のれんを見たい」と言う県外の観光客まで現れた。

ところが一つ問題がある。通年観光客は来るが、花嫁のれんはイベント期間中しか飾られていないのだ。これではいけないと思った一本杉通りの人々は、まずは呉服屋二軒にのれんをずっと展示することにした。ただそれだけではお客さんの満足に至らない。花嫁のれんを生かしたまちづくりをしようとする一本杉通りの人々を見て、七尾市も動いた。「何か行政でできることはないですか?」そう聞かれたときの返答は一つだった。「花嫁のれんを常設できる場所がほしいです」。

まずは空店舗を改装し、一枚ののれんを飾った。それを見た観光客は「こんなにきれいなのれんなら、もっと見たい」という感想を残して、一本杉通りを後にする。一本杉通りの人たちは地域ぐるみで自治体に要望を出し、旧図書館跡が花嫁のれん館になった。旧図書館跡は、街の中心にありながら利用されていない空間である。ここを生かしてまちづくりをしたいという七尾市の思いと、たくさんの花嫁のれんを観光客に見てほしいという一本杉通りの人々の願いが一致した。

新築され、展示施設となった花嫁のれん館。木造で伝統的な七尾の町屋風、平屋建てだ。これは街の人たちの要望だった。のれんだけではなく、花嫁のれん館の内装、特にはりで仕切られた天井にも心を動かされる。昔ながらの七尾の家そのものなのだ。

環境を整えてもらってからは、一本杉通りの人々が運営した。資金、展示物、すべてゼロからのスタートだ。市民から多額の募金を集め、管理法人を立ち上げた。集まった募金で常設するのれんと花嫁衣裳を購入した。各商店には補助金を使い、のれん館にちなんだオリジナル商品を作ってもらった。お客さんが増えるにつれて各店舗も七尾の歴史や花嫁のれんの話をすることに慣れてきた。『語り部処』として、現在も立ち寄ったお客さんに話をしてくれる。

その後、より深く七尾を楽しんでもらうための『体験処』もできた。インターネットではできない発信を、七尾の老輔店舗の主人や女将はどのようにして実現させたのか、そして七尾の女性たちが持つ花嫁のれんとの思い出が知りたくなった。

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