醤油の香りと共に作り、売り、住む

「よいしょ、よいしょ、いち、に、さん」。少しずつしぼる。槽(ふね)という名のしぼり機で、言葉のとおり船を漕ぐように醤油の元であるもろみを絞る。重くて、なかなか動かない。腰に力を入れると、少し動いて、ちょろちょろともろみが出てきた。

11月末から3月までの気温が低い時期に、人の手によって作られ混ぜられ発酵させて、絞られたもろみ。その後、もろみは明治の大火を乗り越えた歴史ある蔵でろ過する。鳥居醤油店は手前がお店、真ん中が住まい、奥が仕事場だ。店に入った瞬間、醤油のかぐわしさに満たされた理由が、醤油絞り体験をしてようやくわかった。

一緒に槽を回してくれた女将が微笑む。「槽を回す体験をした人を見て、私もやってみたいと思う人に手伝ってほしい。そして、もっと醤油のことを知ってほしいんです」。女将のとびきりの笑顔から、自分の培ってきた醤油に対する深い愛情が感じられた。このような昔ながらの製法を守り続けている醤油店は、今、日本にどれだけあるだろう。種麹が麹に、麹がもろみに、そしてもろみが醤油に。作る過程はすべて人の手。一生懸命かき混ぜたり火入れしたりして、長い時間をかけ鳥居醤油は完成するのだ。

鳥居醤油店は代々女将が継いでいる。現在の女将の夫は公務員だった。嫁いだ後、彼女は県内を歩きさまざまな人に出会った。いずれ自分が鳥居醤油店の女将になることはわかっていたので、自然と「このような店にしたい」というイメージが膨らんだ。当時は醤油を量り売りしていた鳥居醤油店。時代に合わせて、500mlの小瓶に醤油を入れて売り、ラベルをつけようと提案したのも今の女将だ。お客さんから好評を得て、今もそれは続いている。

新しい感覚を鳥居醤油店に取り入れた女将だが、花嫁のれんを受け継いでいきたいという思いは強かった。自分自身が嫁いだ際はのれんをくぐらず、その風習を知らなかった実父に「言ってくれれば作ったのに」と叱られた。

ただ、のれん展を知る自分の娘はそうではなかった。「花嫁のれんは高価だから買わずに、思い出のあるもので作ってほしいな」。その言葉を聞いた女将は、娘が幼い頃気に入っていた義母お手製の着物をのれんにしようと思い広げてみた。のし柄だった。実母からもらった生地に、娘の着物ののし柄の部分を切り取ってはりつけた。着物の残った部分は、今後生まれるかもしれない孫の一つ身の着物に仕立てた。これでいいのか心配だったが、のれん展の発案者であるジャーナリスト佐々木和子さんは娘ののれんを見て大きくうなずいてくれた。「これがいちばん。世の中に一枚しかないから」。

娘が嫁いだのはのれんの風習がない大阪である。娘は実家の仏壇に挨拶をした。結婚式の前日、七尾の家を出る前に、打掛を着てのれんをくぐる娘は喜んでいた。自分ののれんが豪華だったからではない。母の思いがこもったものだったからだ。その姿を見て、女将は「いい娘に育ってくれて良かった」と感じた。娘ののれんはそれで終わらなかった。お嫁に行った後、娘は結婚記念日のたびに花嫁のれんをタペストリーとして住んでいた京都のマンションに飾り、夫婦で楽しんでいたそうだ。娘に子どもができてからは忙しくなったので、今は女将が大切に預かっている。

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