お茶に親しんだ幼少期が現在に繋がっている

音と振動が床にかすかに響く。人類が石臼で粉を作り始めてから一万年経つ。「北島屋茶店」主人が小学生だった頃は、戦後まもない時代だった。

親に言われて米やきなこをひいた。ひいた穀類は団子になる。石臼とは、その頃からの長い付き合いだ。時計とは反対周りに石臼を回す。一時間でできあがる抹茶の粉は十人分。石臼は力を入れて回さなければならない。作ったあとは抹茶の粉をきな粉と水あめでできた七尾名物「大豆飴(まめあめ)」に振りかけて口に入れる。舌の上に広がっていったのは、長い歴史を持つ京から伝わってきたおいしさだ。茶を思い切って回すようにたて、最後に「の」の字をかくことを想像して動かすと、飲むための抹茶もきれいに泡立つ。

主人は、茶椀の柄のあるほう、つまり正面をお客さんに向けて出す。お客さんは遠慮して、正面からずらすように茶碗を二度回してから抹茶をいただく。「お先に頂戴いたします」。この作法さえ心得ておけば、お茶会に行っても安心だ。

主人は丁寧に教えてくれる。七尾は戦国時代から続く京文化の街。主人は七尾で親族の店を継ぐにあたり、石臼を奥出雲の実家から七尾へもってきた。抹茶を作るための商売道具として、石臼は今も活躍を続けている。

現在の主人は、子どもの頃、出身の島根でよくお茶を飲んでいた。そのときの味が忘れられない。だから、今も自分がおいしいと思ったものを売る。先々代は弁護士をしていたが、港町のほうが、商売がしやすいということで能登へ来た。大正元年に一本杉通りに引っ越した。当時の家の造りは今も残っている。先代は三河で修行を積んだ後、昭和8年から北島屋茶店を開く。

今の主人が北島屋茶店に婿入りして働くようになったのは、昭和42年のこと。お茶には詳しかったが、能登の風習であるのれんについて知らなかった。当時は祭りがあっても、のれんを飾ることもない。主人がのれんのことを意識したのは、花嫁のれん展がきっかけだった。周囲の人たちから話を聞きながら「のれんは女性の宝」という気持ちを強めていく。自分の妻はのれんくぐりをしなかったが、義母のことはわからない。家の中を探してみると義母ののれんが出てきた。

最初はその柄が何を意味しているのかわからなかった。ただのれん展のために調べていくうちに、義母の実家がのれんにこめた思いが伝わってきた。鶏の柄は、嫁いだ新郎が酉年だったから。これは主人も義妹から聞いて知っていた。ところが、のれんに薔薇の柄があるのは珍しい。しかも、薔薇の絵を描くときは棘を描かないのが一般的なのに、こののれんにはその棘まで描かれている。

それを見たお客さんが「なぜだろう」と言った。主人はぴんときた。これは男親、つまり義母の父が考案したのではないか。娘を嫁に出したくないという気持ちを、棘に体現させたのではないか。こののれんには虎の足もある。義母の父は寅年だ。自分も娘と一緒についていく。そんな思いの表れかもしれない。すべて主人が想像したストーリーではあるが、のれん一枚一枚にそのような気持ちが表現されているのかと考えると楽しい。一本杉通りの北島屋茶店に行くときは、ぜひ主人にのれんの絵柄を見せてもらってほしい。実際に目にすると「なるほど」と思えるはずだ。

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