「初めて会ったときはサイダーを飲んでいたから、てっきり酒は飲まない人だと思っていたのに」

妻の日記には、そんな溜め息が聞こえてきそうな一文が残る。夜遊びの町、西裏で家具屋を営む夫婦の話である。

夫はもともと、医学を志し上京。ところが、東京という地の開放感と持ち合わせていた遊び人魂がうまいことハマってしまったのか挫折、その後体調を崩して沼津の商業学校に移らされた。卒業後、横浜や大阪で就職するもうまくいかず、下吉田で『大星呉服店』を営んでいた父に借金の肩代わりをしてもらった、という過去を持つ。

そこに、見合いで嫁いできたのが冒頭の妻である。酒を飲まない人ならばと決めた結婚だったが、とんでもない遊び人のところへ来てしまったのだ。

結婚当初、2人は夫婦そろって夫の実家である『大星呉服店』に勤めていた。ところが、妻の日記を読むかぎり、実際のところ夫はどの程度働いていたのか怪しいものである。

「富士五湖へ釣りへ。富士山へきのこ狩りへ。今度は、東京や日光へ旅行に……」

夫の遊びっぷりに呆れる妻の言葉が綴られている。一方で、妻は家の片付けなどの家事はもちろん、呉服店では深夜近くまで店番、義理の両親の肩や腰を揉んで帰る日々。持ち帰った呉服店の着物の仕立てで徹夜することも珍しくはなかった。

当時の夫婦の写真を見ると、甘いマスクにスーツでキメた夫と、まるで女中のような格好で一歩下がった妻の姿が捉えられている。

夫は毎晩のように飲み歩き、ときに酔いすぎて芸者さんに玄関先まで送らせることもあった。妻は諦め半分、せめてもの抵抗にドアを閉め、鍵をかけた。ベランダをつたってこっそり帰ってくる夫の姿を、子どもたちが何度も目撃している。

妻の裁縫賃だけでは、生活をしていくことも夫の遊び代をまかなうこともできない。

「家具店をやりましょう」

しっかり者の妻の提案で、昭和8年(1933年)3月、『大星家具店』は開店した。桐箪笥などの大きなものから小さなものまで取り揃え、下吉田の人々の家や店を飾った。大星家具店がここまで大きくなったのも、きっと妻の功績が大きいのだろう。

60歳で亡くなった妻の亡骸の前で、夫は一晩中うなだれていたという。半生を振り返り、一体何を思っていたのか。今となってはもうわからない。

かつては家具を買いにくる人々を、夫婦で迎え入れた家具屋。今では彼らの孫が営む『大星家具店』と『ロンタン』となり、おしゃれな輸入家具や下吉田らしい雑貨などが並ぶ。

建物は建て替えた部分もあり新しくきれいだが、「トタンの町」らしい壁のデザインや、昔から変わらない梁が見えるなど、破天荒な夫とそれを見守る妻の過ごした日々が、どこか思い浮かぶような場所だ。

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