「朝の日本橋へ出かけよう」

このガイドは、日本橋のまち歩きガイドです。同時に、今ここに意識を向けながら歩く「マインドフルネスウォーキング」を行うためのガイドでもあります。単に「まちを歩く」のではなく、自分と外に意識を向けながらまちを散策することで、新たな発見があるかもしれません。

向かう先は、ホテルから歩いて10分ほどにある「日本橋」。準備が整ったらホテルを出て、このガイドを聴きながら日本橋へと向かいましょう。

普段は無意識で行っている「歩く」こと。まずは、歩く動作をじっくり観察してみます。ホテルを出て、ゆっくり歩きましょう。

まず1分ほど、歩いてください。歩きながらいくつか問いを投げますので、意識を向けてみましょう。

それでは歩き始めてください。

「呼吸は、どんなリズムでしょうか?」

「どんな姿勢ですか?」

「目線はどこを向いていますか?」

「足はどのように地面につくでしょうか?」

「地面はどんな固さですか?」

どうでしたか。ゆっくりと、丁寧に意識を向けながら歩くだけで、たくさんの発見があるはず。

これは五感をはたらかせて、このまちを感じるためのガイド。日本橋は、アートと同じように人が持つアイデアと好奇心がつくり上げたまち。

このまちがどんな歴史を刻み、どのようにつくられてきたのか。このまちにはどんな人が関わり、どのような想いを持っていたのか。今からこのまちがたどった歩みをご紹介します。

先ほどのように、ゆっくり丁寧に歩くことを意識しながら、歩みを進めていきましょう。

「お江戸日本橋 七つ立ち 初上り行列揃えて アレワイサノサ」

これは東海道五十三次を、江戸・日本橋から出発する旅の唄「コチャエ節」の一節。この唄にうたわれたように、江戸時代の旅人たちは七つ鐘が鳴るとき、つまり午前四時頃の真っ暗なうちに発つのが一般的でした。朝早いうちに出発し、夜になる前に宿場町にたどり着くためにも、江戸時代の旅人は一日30〜40km歩いたと言われています。

江戸幕府が開かれたその年に、「日本橋」という名の橋がかけられました。家康の命により、この橋は東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道の起点と定められたのです。

当時の日本橋は、今のように高層ビルや高速道路などの視界を遮るものは何もなく、美しい富士山や江戸城、朝日を眺めることができる絶景のポイントでした。諸説ありますが、「この美しい場所が日本の中心地となるように」という期待を込めて「日本橋」という名がついたと言われています。

また日本橋の下を流れる、日本橋川の北岸には魚河岸が開かれ、江戸の台所として栄えました。よほどの盛況ぶりだったのでしょう。「竜宮城の港」とも呼ばれていたのだとか。絵師・歌川広重が描いた「五十三次 日本橋」の中にも、魚屋の姿が描かれています。

ここで想像してみましょう。

まちの中に水路が通り、魚の香りが漂い、舟や人々がにぎやかに行き交う様子を。

日本橋は食、文化、商売の中心地であり、このとき日本でもっともクリエイティブな場所でした。あなたがこの地に生きていたならば、そのとき、何をしていたのでしょうか。

すこしだけ、音楽を聴きながら想像してみてください。そのあと、時代を明治へと進めましょう。

「日本橋の歴史/文明開化が花開く。経済・金融のまちへ」

「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」

最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は幕を閉じました。江戸は東京と名を変え、明治の世へ。平成が令和に移った時とは訳が違い、江戸のまちは一変します。明治政府は鉄道の開通、郵便や電信などのインフラを整備し、ガス灯や煉瓦造りを積極的に採用するなど、日本の西洋化を推し進めました。

それにともない、人々の生活にも大きな変化が起きました。パンやビールなどの洋食が流行し、ちょんまげを切り洋風の散髪にした「散切り頭」や、西洋の洋服や革靴を身にまとう人が徐々に増えていったのです。

日本橋界隈は、まっさきに西洋化の恩恵を受けました。現在も中央通りに店を構える「三越」は、「デパートメントストア宣言」を発し、日本初の百貨店となります。着物を扱う呉服屋から、多種多様な商品を部門ごとに販売するデパートに変化を遂げます。さらに三越は、エスカレーターやエレベーターを日本で初めて導入するなど、西洋化をいちはやく取り入れました。

きっと当時の人々は三越などの呉服店に足を運び、洋装の支度をしたのではないでしょうか。西洋の文化に染まりつつある日本。しかし同時に、世界を大きく巻き込む戦争へと歩を進めることにもなるのです。

江戸から明治へ。時代の移り変わりともに、まちも生活も大きく変化した日本橋。新しい文化がまちを彩る様子を楽しみにする人もいれば、自分の生まれたまちが様変わりすると心を痛めた人もいるかもしれません。

もしあなたがこのまちに住んでいたら、どんな思いでまちの変化を見ていたのでしょうか。音楽を聞きながら、想像をふくらませてください。

「日本橋の歴史/現代の日本橋の姿」

そろそろ、日本橋に到着した頃でしょうか。ホテルからここまでは10分ほど。そこまで時間はかからなかったと思います。今は、電車もバスもあります。大きな苦労もすることなく、らくらくと旅ができる時代。

しかし、江戸の頃は多くの旅人が野を越え、山を越え、自分の足で長い道のりを歩いていました。旅人たちがやっとの思いで日本橋に着いた…そんな様子を思い浮かべながら、橋の上をゆっくりと丁寧に歩いてみてください。足元に、姿勢に、意識を向けながら、2分ほどゆっくり歩いてみましょう。

それでは、スタートです。

「呼吸のリズムはどうでしょうか?」

「過酷な道のりを歩いてきた足は、どんな様子ですか?」

「やっとたどり着いた目的地は、どんな景色でしょうか?」

「気になるモニュメントはありますか?」

歩くことに意識を向けた後は、「日本橋」と書かれた文字をじっくりと見てみましょう。

高速道路の側面、そして橋柱の銘板に書かれた、漢字の「日本橋」とひらがなの「にほんばし」の文字は、最後の将軍・徳川慶喜が書いたものです。「江戸のまちで戦火を交えず、無血開城できたのは慶喜の決断があったおかげ」だと、当時の東京市長から頼まれて書いたのだとか。

しかしその思いをよそに、大正時代には関東大震災が起こり、このまちは、見る目を覆うほど変わり果てた姿となりました。日本橋一帯は地震直後に発生した火災で、まちのほとんどが焼失。江戸時代より多くの人で賑わっていた魚河岸もこの地震で姿を消しました。橋の一部には、今もその焼け跡が残っています。

昭和に入ると戦争が激化し、東京大空襲により再びまちは焼け野原となります。戦争中に金属が不足したため、中央にある麒麟像は、撤去の危機にありました。そのころまちにある銅像は溶かされ、武器の原料になっていたのです。しかし、長崎・広島の原爆投下により日本は降伏し、終戦を迎えます。麒麟像はぎりぎりのところで、回収を免れたのでした。

これまでお話した歴史の道標は、日本橋のあちらこちらで見つけることができます。橋の北詰東側にある「日本橋魚市場発祥の地」碑と乙姫像。橋の中央には、大きな翼を羽ばたかせた麒麟像。橋の両端には、獅子像が配置されています。実は「橋」にちなんで、「8×4=32頭」の獅子が隠れているとか。

度重なる困難のあと、日本橋は見事に復興を遂げました。今日の日本橋の姿を見れば、多くの人の努力の末に、この場所が息を吹き返したということが想像できるでしょう。焼け野原になっても、多くの老舗は退かず、この地で再び商いを行いました。どんな困難があっても、歴史の灯火を消すまいと奮闘したのでしょう。

日本橋がこの地にかけられて、およそ400年。これまでこの橋の上でどのような人が、どんな思いを育んだのでしょうか。

しばらく、音楽とともに先人たちの物語に思いを馳せてみましょう。そのあと、話をエンディングへ進めます。

「あなたのまちをどう、つくる?」

将軍が物流の流れをつくったまち。町人が様々な文化を生み出したまち。文明開化の最先端のまち。その時を生きた人々の意志が、このまちをつくってきました。

意識を向けながら丁寧に歩く中で、あなたにどのような変化がありましたか。普段無意識にしている「歩く」という行為をあらためて認識すると、たくさんの発見があったのではないでしょうか。

湧き上がってくる感情があったり、面白いアイデアが思い浮かんだり。過去の記憶を思い出したという人もいたかもしれません。

その変化が起こった今、普段はあまり考えることの少ない、「あなたのまちの未来」について考えてみてほしいのです。まちはいつだって、その時代を生きる人々の意志でつくられています。まちは「どこかの誰か」から与えられるものではないのです。

さぁ、ホテルへ帰る道すがら「あなたのまちの未来」について考えてみましょう。その小さなアイデアが、どこかで芽を出すことだってあるのですから。

【使用画像】

・帝都の中心日本橋と三越百貨店附近 Nihonbashi Bridge and Mitsukoshi Dept (Greater Tokyo) / 東京都立図書館所蔵
・東海道五拾三次 日本橋(部分)/歌川広重/国立国会図書館デジタルコレクションより
・「東京名所」「日本はし江戸橋」 「驛逓局」「第一銀行」(部分 ) /歌川広重(3世)/ 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

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