白壁の大きな建物の奥に、赤いレンガの蔵がある。そのレンガには、長い歴史が染み込んでいる。西南戦争直後に建てられたもので、かつてはここでしょうゆやみそを仕込んでいたそうだ。中を見学してみると、天窓がついていたり、空気を循環させる風の通り道があったりと、発酵に必要な細かい温度調整ができるようになっている。
当時の日本にはレンガを作る技術がなく、外国から輸入する高級品だった。そのため、レンガ作りの建物はもともと数が少ない。それが西南戦争の頃から残っているとなれば、さらに貴重だ。ともすれば、熊本大学の門より古い可能性もあるという。
熊本大学のレンガ門といえば、大切な国の重要文化財。それと同じくらいの歴史を持つのが、この蔵なのだ。
今はもう、ここではしょうゆを仕込んでいない。でも、15代目の代表によれば、こうした蔵には「蔵ぐせ」があるのだという。壁や柱には微生物が棲みついていて、それが独自の風味を生むのだと。代表は、それは今も残っていると考えている。蔵ぐせも、長い歴史とともにレンガに染み込んだ、ここにしかないものの一つだ。
創業300年を超える兵庫屋は、長い歴史の中で何度もその業態を変えている。もともと加藤清正の家臣だったという初代が、1715年にこの場所ではじめたのは質屋だった。当時、武士をやめて商人に転じた人は、質屋をはじめることが多かったのだという。その後は質流れになった桶や樽を使って赤酒造りをはじめ、明治時代のはじめごろにみそ・しょうゆの製造に転向。その味は評判を呼び、熊本陸軍の御用達になったり、サンフランシスコで開催されたパナマ運河開通記念博覧会にみそとしょうゆを出品し、表彰状を贈られたりしている。
業態を転々としたことを、代表は「商売が下手だったんじゃないですかね」と笑う。うまくいかないと思ったら、すぐに鞍替えならぬ「蔵替え」。それは、機転が効くということでもあるだろう。その気質は今もあって、現在の代表は不動産業を広げたり、蔵を資料館として解放したり、いろんなことに挑戦している。
手を広げているのには、どんな形であれこの場所を守りたいという思いもある。「この蔵は、熊本地震でも2回の大きな揺れに耐えたんですよ。それはやっぱり、残せということなのかなと」。
代表の跡は、息子さんが継いでくれることが決まっている。でも、何の商売をするかは任せている。「屋号とこの建物さえ残っていれば、どうなってもいいと思います」。兵庫屋は、この先どんな蔵替えをするのだろう。