「我こそは 新島もりよ 隠岐の海の 荒き浪かぜ 心して吹け」

この歌は島流しの憂き目にあった後鳥羽上皇が隠岐に上陸する際に詠んだ歌といわれている。果たして、どんな気持ちであったのか。想像してみてほしい。

そもそも、後鳥羽上皇はなぜ隠岐に流されることになったのか。きっかけは承久の乱。それは貴族である後鳥羽上皇と、武士である鎌倉幕府の天下分け目の戦いだった。結果、鎌倉幕府が勝ち、日本は貴族の時代から武士の時代へと移り変わる。そして、敗者となった後鳥羽上皇は都から追放されて「崎の港」に上陸した。

その崎の港とは「崎漁港」かもしれないが、この「堤港」かもしれない。というのも、伝説によると後鳥羽上皇が乗った船は途中で嵐にあって遭難してしまう。そのとき、3つの火の玉が海から飛び出して、とある山に灯った。のちに「火を炊く山=焼火山」と名付けられる山である。その不思議な光が灯台のような役割をして後鳥羽上皇は無事に港に着くことができたというのだ(隠岐汽船のマークはこの伝説に由来している)。

しかし、崎漁港から焼火山を見ることはできない。伝説が成立しないのだ。一方で、堤港ならば焼火山が見える。そのことから堤港に上陸したのではないかと考える人もいる。いずれにせよ、夜中に崎の港に上陸した後鳥羽上皇は近くの神社に泊まり、それから山を越えて、隠岐神社のそばに用意された住まいに向かったといわれている。

ところで、この堤港で不思議なジオを発見した。これは一体、何なのか。専門家に聞いても「見た目はたまねぎ状風化だが、それなら玉ねぎの皮をむくように、まわりが剥がれていきながらも、中心は残っているはず。それなのに、なぜか真逆の現象が起こっている」とのこと。後鳥羽上皇の上陸地にも謎が残されているように、隠岐にはまだたくさんの謎が隠されている。

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