麦畑から麦の酒へ

「1623」。これは、川崎が東海道の宿場町に制定された年号。つまり、川崎という街のはじまりの年だ。そしてそれは、東海道BEERのフラッグシップビールの名前でもある。大量のアロマホップを使った正統派のIPAで、400年の歴史を持つ川崎のように、長く愛される味を目指して造られた。

クラフトビールには確固たる定義があるわけではないが、地域に根差すことは多くのブルワリーが大切にしている。東海道BEERも、川崎に強いアイデンティティを持つ。この地にブルワリーを構えたのは、松尾芭蕉が川崎宿で詠んだ句に由来する。

「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」。これは、松尾芭蕉が故郷の伊賀へと帰る際、見送りに来た弟子たちに向けて詠んだ句だ。それは、当時の川崎に麦畑が広がっていたことを彷彿とさせる。麦畑から、麦の酒であるビールへ。ブルワーは、松尾芭蕉から川崎に対する思いのバトンを受け取ったと考えた。

醸造所併設のカウンターから見えるライトアップされた発酵タンクは、この街の工場夜景をイメージしている。振り返った壁面に描かれているのは、歌川広重の浮世絵「川崎宿」を近未来的にアップデートした景色だ。過去、現在、未来。街に流れる時間を、一杯のビールがつないでいく。

東海道BEERのブルワーは、予備校で物理を教えていた経歴を持つ。ビール造りをはじめたきっかけは、「飲みたいビールがなかったから、自分で造ろうと思った」。最初に立ち上げた風上麦酒製造のビールは、強烈な個性で全国から注目を集めた。その後交通事故に遭い、一度は引退を考えるも、縁があって東海道BEERを立ち上げることになった。そうして「1623」のほか、川崎名物の工場夜景をイメージした「黒に浮かぶ」、地域のサッカークラブ川崎フロンターレと共同開発した「FRO AGARI YELL」など、川崎だからこそのクラフトビールを生み出し続けている。

豊富な物理の知識は、ビール造りにも有利に働いているという。自然界に存在する麦芽やホップを、大きく複雑な設備を動かして加工する。その過程では、酵母菌という生物の力を借りる。ビール造りには科学の知識が不可欠。「その中でも、一番大切なのが物理」だと、ブルワーは話す。

「たとえば、発酵を終えたビールはどれだけ酸素に触れさせないかが鍵になる。たとえばタンクの中身を移し替えるときにどれだけ酸素を入れないようにするか、そんな工夫に物理の知識が役立っていますね」

東海道BEERでは、使用している設備も一般的な日本のブルワリーとは違っている。設備を導入する時に、「こう組み替えた方がうまくいく」と思った点を改良したものを揃えた。一般的ではない設備を使うのはリスクもあるが、それでも導入したのはやはり、豊富な知識に裏付けられた自信があったからだ。

風上麦酒製造では個性的なビールを造っていたが、東海道BEERでは王道に挑戦したいと考えていた。個性だけではなくクオリティでも勝負する時、無数の小さな積み重ねが違いを生み出す。「ビール造りにおいて、丁寧さは才能」。ブルワーはそう静かに語る。長い道のりの、一歩一歩に意味がある。

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