レッスン1|歴史から見る心象風景

江戸時代、内藤家が褒美としてもらった庭が新宿御苑

徳川家康が江戸を目指したとき、鉄砲隊として先陣を切った男がいた。名は内藤清成。彼はその功績によって、広大な土地を与えられた。それも「馬で走った範囲をすべて与える」という破格の条件だった。

内藤は白馬に乗って駆けたという。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保。現在の新宿御苑がまるっと収まる敷地である。やがて内藤は玉藻池に屋敷を建てて暮らしはじめた。それが、この土地の原点。新宿御苑は内藤家の庭だったのだ。

その後、甲州へ続く街道が整うにつれて、新しい宿場町「内藤新宿」として賑わうようになる。これは「新宿」という名の由来でもある。

明治時代、多様な植物を育てる実験場であった

明治維新が起きると、内藤家の土地は政府に返還される。時代は富国強兵。日本は農業においても近代化を目指していた。そこで、この広大な土地を野菜や街路樹の研究所「内藤新宿試験場」とする。西洋から植物の種を取りよせて、日本で育つかどうか実験したのだ。

その後、研究所は三田に移され、皇室の庭園=御苑となる。来客のもてなしや、国家行事のために庭園も整えられ、イギリス風景式庭園、フランス式整形庭園、日本庭園と、3つの庭園の原型ができていく。ゴルフコースやテニスコート、クラブハウス(旧洋館御休所)まであったという。

戦後は国民公園として解放、 現在の新宿御苑に。

昭和になると、昭和天皇の結婚を記念して「台湾閣(旧・御凉亭)」が建てられる。しかし、戦争がはじまると日本は食糧難に。庭園は兵士によって耕され、麦や芋を育てる畑となった。空襲によって、ほぼ全焼する憂き目も見たという。

戦争が終わると、国民が誰でも使える公園として、現在の「国民公園新宿御苑」となる。「母と子の森」や「新宿御苑大温室」が整備されて、公園全体が自然について考える場所、都心にいながら植物について学べる場所として親しまれている。

これらの歴史を知ることで、新宿御苑を見る目が変わるはずだ。

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