夫は今日も元気に出かけていく。最近は「工場は今が稼ぎどき」が口癖だ。製鉄が繁栄すると、工場も増える。その中の働き手の一人が私の夫だ。
夫の出社後、家族の服を洗う。干して夕方に取り込むのだが、洗う前より汚くなっている気がする。「どうしてかしらね」と隣の奥さんと話す。最近は海も「死の海」なんて呼ばれてしまって、釣りをする人もいなくなった。
額の汗をふいて空を見上げると、もくもくと七つの色の煙があがっていた。夫が私たちの生活のために頑張っている。私も頑張ろうと思う一方で、汚くなった洗濯ものを見て「何か変だな」と最近感じ始めていた。
「何か胸騒ぎがするわね」
隣の奥さんも不安そうに言う。
八幡の工場で仕事をしている夫にはできない話だ。七色の煙は、八幡の繁栄の証でもあるし、夫の職場から出ているものでもあるのだから。
でも、本当にこのままでいいのだろうか。
隣の奥さんだけではなく、だんだんと近所の主婦たちとそんな話をするようになった。
後にそれは「空の公害、海の公害」と呼ばれ、それから30年後、自分たちの呼びかけによって北九州の空と海が美しさを取り戻すなんて、そのときの私は想像もしていなかった。
昔の人は健脚だった。皿倉山はそれなりに高い山なのだが、皆すたすたと登り、皿倉山で祭りがあれば山頂でいきいきと楽しんでいた。
八幡は日本の製鉄業で重要な役割を担っていた。労働者が集まり、皿倉山周辺は活性化する。祭りのないときは、子どもたちが山にのぼり、自分の家はどこにあるのか指さし合っていた。しかし、家が見えにくいことがほとんどだ。近所で遊んでいると足の裏が真っ黒になった。
子どもたちは、当たり前のこととしてそれを受け入れた。八幡の繁栄の代償に公害が起きているなんて、夢にも思っていなかった。
皿倉山で景色を見ようとしても七色の煙がじゃまをする。七色と言っても虹のようなものじゃない。くすんだ色だ。
いちばんはじめにおかしいと感じたのは家事をしている主婦だ。彼女たちはささやき合うようになった。あの煙のせいで海も空気も汚れているのではないかと。
男たちも「もしかして」と感じてはいただろう。だが彼らは声を大にして言えない。何せ製鉄のおかげで仕事ができているのだから。もし何か行動を起こせばクビになるかもしれない。
ただ主婦たちは違った。子どものため、家族のために声をあげて調査に乗り出した。そして原因は公害だとわかり、調査結果を自治体に提出。自治体はルールを作り、24時間のモニタリング体制を整備した。これは今も続いている。
大きな空気清浄機、燃料を変えて廃棄されるものを変える…さまざまな工夫が施され、環境への負荷が減った。海は高濃度の部分を重点的に取り除き陸へ。人の住んでいる場所だと問題が生じる可能性がある。埋めた場所は企業の資材置き場として利用した。工場から出た水も、工場以外で使わないようにした。
積み重ねられた努力のかいがあり、30年で北九州の空と海は見違えるようにきれいになった。
高度成長期ほどの繁栄はなくなったが、空と川の濁りは消えたのだ。
今、大人になった当時の少年たちはケーブルカーで皿倉山を登る。このケーブルカー、すれ違うときの光景も見どころのひとつだ。また、下りケーブルカーのいちばん前に座ると絶景が目の前に迫ってくる。景色の中に七つの色をした煙はもうない。