石炭の港、若松。

時は明治。若松の象徴は港で石炭を担ぐ仲仕「ごんぞう」とも呼ばれたという説もあるが、定かではない。とにかくごんぞうたちは朝から晩まで石炭まみれであった。

「粋だなあ」

職を得るために若松へ来たばかりのおれはつぶやいた。隣にいる妻と子は、石炭の山と港の船の数を見て驚いた。

おれの組の親方の肌は真っ黒だった。近づくと汗の匂いがする。これが石炭と若松の匂いだと思った。

「よろしくお願いします」

家族三人、深々と頭を下げる。親方は軽快に笑った。

「今に真っ黒になるぜお前も。今日はたくさん飯を食わせてやる。明日から頑張れよ」

大きな声でそう言うと、親方は作業をするために戻っていった。

「父ちゃん…」

初めて来る土地なので幼い息子は不安げだ。食べるものが少なくて、いつもお腹をすかせている。そのか細い体を見ると意欲がわいてくる。おれも一人前のごんぞうになっておいしいものをたくさん家族に食わせてやる。この若松で。

若松でひときわ華やかにそびえ立つのは、大正時代に建築された「旧古河鉱業若松ビル」だ。19世紀のヨーロッパのようなたたずまいに魅せられる。

周辺の環境は一変してしまったが、「石炭の記憶をとどめてほしい」という想いから、人々はお金を集めた。そのおかげで、旧古河鉱業若松ビルは今も残る数少ない当時からの建築物になった。

館内は改装されている。しっくいの美しさが印象的だ。東京市(当時の名称)仕立ての金庫も現存していて、火事になっても金庫の中には火が入らないような作りが施されている。

若松は外国船がよく来る港だった。周囲にはビフテキやエビフライを提供するモダンな店もたくさんあったという。若松の芸者衆は芸時には特に洗練され、きらびやかな着物をまとい、化粧をする女たちや髪結いが丹念に芸者をより美しくした。街中には呉服屋も並び、琴や三絃の店もあったという。ひいきの芸者に着物を買い与える者も少なくなかったそうだ。

町の通りでは、文人と仲仕達が肩を組んで歩くようなところだった。

旧古河鉱業若松ビルはそんな若松の誇りだった。

若松には寄付を惜しまない気風がある。このビルもそうだったように、若松は人情に篤い北九州の中でも「町に必要なものに寄付しなければ」と実行した人が多い。

このビルが建つ前の明治時代に遡っても寄付の記録は残っている。人口の増加とコレラ対策のための浄水場も有志達の努力によって作られたそうだ。東京の美術館をはじめ、公会堂、海員児童ホーム、保育園、公園などに至るまで、今も市内に残るものもある。

「若松に育てていただいた」

そんな感謝の気持ちが、住民すべての心に宿っているのだ。

一方で、旧古河鉱業若松ビルの近隣には旧ごんぞう小屋がある。「ごんぞう」の詰め所を再現した、小さな建物だ。旧古河鉱業若松ビルの華やかさと、旧ごんぞう小屋の昔の日本の労働者を象徴するかのようなたたずまいは、正反対のはずなのにどこか似たものを感じさせる。

「昔の日本」が、若松の名所によって蘇る。

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