車の中。若戸大橋の上から海を見下ろす。
「昔は、あんなに濁っていたのにねえ。空も七つの煙でいっぱいだったんよ」
そう言うと、スマートフォンとやらをずっと見ている孫娘が返事をした。
「おばあちゃん、そういう話ばかりするね」
高校生の孫は、きれいになってからの北九州しか知らない。そして石炭景気が沸いていた時代も知らないのだ。でも、いつも私の話につきあってくれる。やさしい子だ。
「今年も花火、楽しみやね。一緒に来ようね、おばあちゃん」
「くきのうみ花火の祭典やったかね?このあたりの人しか知らんのに、飽きんねえ」
「だって私、北九州で生まれたんよ」
はっとする。孫は、スマートフォンを見たままだ。
できれば、北九州に生まれたことを誇りに思ってほしい。押し付けたくはないが、思い切って言ってみた。
「環境問題はたしかにあったけど、北九州は明治から高度成長期まで、たくさんの人々の思いを積み重ねてきた歴史のある街なんよ」
スマートフォンから顔を上げる。
「おばあちゃん、聞きたいかも、それ。私のうちがある戸畑にも何かある?」
「もちろん。例えばね…」
話し始めながら、思う。伝えられることはたくさんある。きっと孫も興味を示してくれる。車を運転している息子を見て、白髪が増えたなと思った。もうそんなに時が経ったのか。彼は後部座席にいる私たちに何も言わないが、微笑んでいるような気がした。
赤くて大きな吊り橋「若戸大橋」。
昔の北九州では、海を渡る手段は船しかなかった。大正までの船は人や荷物などの軽いものしか運べない。昭和のはじめには事故も起きた。
戦後になり、日本は発展へと向かった。交通の便が良くなり、道には車が走る。
北九州も例外ではない。洞海湾を車が渡るための吊り橋が必要になった。そして完成したのが若戸大橋である。開通したとき、時代は高度成長期のまっただ中だった。当時は東洋一の長いつり橋であり、北九州の栄華を誇るかのようなたたずまいを見せていた。後に若戸大橋に続こうと、さまざまな長吊り橋が日本中で作られた。
とはいえ、この橋が架けられた頃、下にある海は公害で汚れていた。
「泳いだことは?」
当時を知る人に聞いてみると「まさか」と笑って返された。泳げないくらいの汚れだったのだ。
しかし今は、環境汚染への対策が施され、海は見違えるようにきれいになった。その海の上には若戸大橋の変わらない姿がある。
毎年、7月の終わりになると、洞海湾に船を浮かべそこから花火が打ちあげられる。「くきのうみ花火の祭典」だ。橋の下から花火が放たれるナイアガラ花火が見どころの一つだ。この花火大会は約35年前から開催されている。昔のような繁栄がなくなっても、当時を思い出させる華やかさは人々の心に強い感動を与える。毎年の来場者は30万人を超す。北九州の人々の夏の楽しみだ。
若松から戸畑まで、若戸大橋を車で走ると北九州の工業地帯が迫ってくる。戸畑もまた北九州の歴史が眠る場所だ。