時刻は、朝の8時15分。平和の時計塔から、毎日同じ時間に聞こえてくる、同じチャイムの音。それは、広島に原子爆弾が投下された時間と全く同じ時間に鳴らされる、平和を願う鐘の音だった。
爆弾は、公園のすぐそばを流れる旧太田川の上にかかる、T字型の橋を目掛けて落とされた。風で流れ、川を挟んで公園の向かい側に落ちた爆弾は、あたり一帯を火の海に変えた。
このエリアを訪れると、まず最初に知る歴史はそうした「原爆以後」の物語だろう。戦後のこのエリアは「平和を訴える土地」としての役割を果たしてきた。焼け野原だった場所には、慰霊碑や時計塔のある公園が整備され、平和記念資料館が建てられた。かつては広島県産業奨励館として多くのビジネスマンが舌戦を繰り広げたであろう建物も、いまは「原爆ドーム」と呼ばれ、戦争の悲惨さを伝えている。
ただ、今回のガイドで伝えたいのは、「原爆以前」の町がここにも確かにあったということ。その振り返りこそがきっと、戦争と平和を知ることにつながるはずだから。2019年にリニューアルされた広島平和記念資料館の学芸員である落葉さんに、話を聞いた。
リニューアルをきっかけに、展示内容が変わったという資料館。これまでは原爆の威力や悲惨さを伝えていた展示が、「被爆した方々一人一人の人生」に寄り添うストーリーを伝えるものへと変わった。そこには確かに、戦争によって人生を変えられた人々の苦悩と、そうなる前の個人の人生の営みがあった。
もともと、中島地区と呼ばれ、多くの人が暮らしていたこのエリア。西国街道があったことでいくつかの宿が建てられ、広島城のそばを流れる旧太田川の流域にあったことから、水上交通の要衝となった。船を使って運ばれてくる商品の数々を売り買いするため、多くの商店が立ち並んだこの町は、大正時代に市内の電車が開通するまで、広島のなかでも最も栄えた町だったという。現在は原爆ドームと呼ばれている建物も、かつては産業奨励館として、産業博覧会やお菓子博覧会を開催し、賑わいのある風景を作り出してきたはずだ。
広島を歩き、町の歴史を聞いていると、広島城と水路の関係が、町の人々の精神性に少なからず影響を与えている。中島地区もまた、城と水路の関係から、生き生きとした商人の町だった。しかし、そうした町の精神性すら、原子爆弾と戦争がリセットしてしまった。
平和記念公園のほど近くにある「おりづるタワー」に登ると、町の風景がよく俯瞰して見える。商人たちで賑わったであろう中洲も、船が行き交っていたはずの川も、原子爆弾を落とす目印となったT字型の橋も、すべてがよく見える。ここにかつて、人々の暮らしがあったのだ。
資料館やおりづるタワーの施設内には、そうした町の歴史を知る資料や、活気のあった頃の町の写真が展示されている。そうした資料を見て、リセットされる前の町があったことを知って欲しい。失われる前の風景を知ることが、きっと一番「平和」を感じることになるから。