海風を浴びながら、船で宮島へと渡る。もみじまんじゅうに屋台で焼かれた牡蠣、自由気ままに歩き回る鹿たち。そんな観光の魅力に溢れ、今でこそ日本を代表する観光地として知られる宮島は、古来より信仰の対象として崇拝されてきた。その島の姿と、弥山を主峰とする山々、昼なお暗い原始林に覆われた山容に霊気が感じられたところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていたという。
島に着き、賑わう商店街を歩く。この風景を生んだ歴史を知るべく、向かったのは厳島の山肌に佇むお寺・大聖院(だいしょういん)。副住職の吉田さんに、話を聞いた。
厳島神社が生まれたのはおよそ1400年前、推古天皇の時代だ。自然信仰の歴史も長いが、現在のような信仰の形になったのはもう少し後のこと。僧侶・空海が唐から帰ってきたことで、島のあり方は大きく変化したという。
空海が唐から日本へと帰ってきたのは806年のこと。同年に宮島を訪れた空海は、弥山での修行を経て、現在の「大聖院」を創建したとされている。そこには、唐から持ち込んだ「密教」と、その教えをもとにした後の空海が京の都で開いた「真言宗」の教えが深く刻まれている。
真言宗以前の仏教の教えでは、人間は無限にも近い輪廻転生を繰り返した先に、はじめて仏に近づくことができるとされていた。一方で、空海が唱えた教えは「”三密”と呼ばれる仏様と同じ行いをすることで、誰もが現世で仏の境地に近づくことができる」というものだった。
人間でもできる、仏様と同じ行いとは。それは、身(からだ)・口(くう)・意(こころ)を使った行いとして伝えられた。体で座禅や合掌をすること、口でお経を唱えること、波のたたない穏やかな心を持つこと。その三つを同時にしている間は、その人は仏の境地に近づいているとされた。もしも世の中の全ての人が三密修行を行っている瞬間が来たとしたら、それは世の中に争いのない平和な瞬間となる。三密の教えには、そんな平和への願いも込められていたという。大聖院の境内にあるさまざまな場所にも、そうした「三密」の修行を体験できる場所がある。
弥山がその後、「体を使って心を治める」ことを教えとする修験道の土地として栄え、多くの山伏と修験道者が訪れるようになったのも、歴史を知ればうなずける。
1200年の間にどれだけ時代が移り変わっても、時の権力者によって守られてきた厳島の信仰。それは、明治に起きた「廃仏毀釈」の際にも。
当時、高まりすぎた修験道者たちの勢力を抑え、浄土宗をもととしていた江戸幕府の時代からの国の体質を変え、神道を国教とするために日本中の寺と仏像が壊された時代があった。神道の厳島神社、仏教の大聖院、修験道の弥山が同居するこの厳島もその時代を経験したが、「人智を超えたものに人が手出しをしてはならない」と、厳島の人々は大聖院のものを破壊することはなかったという。
厳島神社の神事を大聖院で行うこともあった。別当寺としての取り組みを続けてきた1200年で、そうした信頼関係を築けたのかもしれない。空海が残したのは、大聖院だけではない。修行を終えたお礼にと、最後に行った護摩行の火が残され、その火は「消えずの火」として現代まで守り続けられてきた。今でも、弥山山頂に行けば消えずの火がある。それは時代を超えても守られ続けてきた信仰のように、消えることなく燃え続けている。