まずはこの地図を見てほしい。描かれているのは、三日月のかたちをした水堀。「三日月堀」と呼ばれる城を守る構造の一種で、かつてこの辺りにあったという。
ここで、話は再び時代をさかのぼる。関ヶ原の戦いのあと、江戸幕府を開いた徳川家康は、依然として大坂を中心に強い力を持っていた豊臣家を滅ぼしたいと考えた。この戦いが、二度にわたる「大坂の陣」。戦国最後の大合戦だ。
関ヶ原の戦いで真田家は二つに分かれたと紹介したが、この合戦もまた弟の幸村は豊臣軍として出陣することになる。
一度目の戦いである大坂冬の陣では、「真田丸」と呼ばれる砦が徳川軍を苦しめた。この砦は、半月状に陣地を設け、その周囲を堀で囲んでいる。そう、三日月堀を応用した構造だ。この真田丸で、幸村は徳川軍の激しい攻撃を退けたと伝わる。翌年の夏の陣でも、幸村は家康を追い込む大活躍をみせる。あと一歩のところで力尽き、壮絶な最期を遂げたが、その勇敢な姿は後世まで語り継がれることになった。「日ノ本一の兵」と呼ばれることになったのも、この戦いぶりが伝説となったからだ。
兄である信之は病気のためこの戦いに参加していない。三日月堀は松代城だけにあるものではないので、幸村の真田丸との関連性もわからない。それでも、晩年の信之はこの三日月堀を前に思い出していたかもしれない。敵として生き別れたまま死んでしまった弟・幸村のことを。