場所を見るのではなく 時間を見る

日本庭園とは、心に思い描いた風景を「庭」というキャンパスに描いたもの。池を海になぞらえたり、岩を山になぞらえたりして、自然界を凝縮した小さな世界をつくる。こうして自然の風景になぞらえて表現することを「見立て」という。日本庭園を見ていると、日本人は「わびさび」を感じる。わびさびとは何か? おそらく多くの日本人は言葉で説明することができない。でも、心ではわかっている。「侘しさや、寂しさの中にある美しさ」などと言語化するまでもなく、「わびさび」を理解している。日本人が日本庭園を美しいと感じるのは、幼いころから触れているいるから? 先祖代々、積み重ねてきた遺伝子が反応しているから? 思えば、人物画が発展した西洋に比べて、水墨画をはじめとする風景画を発展させてきたのが日本。日本人は風景を見る力に長けている民族なのかもしれない。

たとえば閉園時間が迫った夕暮れどき、誰もいない園内をふと振り返った瞬間、自分の影が誰にも重なることなく、長く、長く伸びているのが見えたとき。そうして、いくつかの奇跡のかけらが示しあわせたようにピタッとはまり、一枚の風景を映し出したとき、時間は静止する。まるで自分だけが息をしているような、この世界にひとり取り残されたかのような──孤独。その風景の美しさに、言葉にならない侘しさや、寂しさを感じる。風景とは瞬間と瞬間の重なりあい。ぼくたちは場所ではなく、時間を見ているのかもしれない。

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