ハーン・オンさん
1957年、バッタンバン生まれ/ニュージーランド、サウスオークランド在住
ハーン・オンは音楽一家に生まれた。彼の父はチャペイ・ダン・ベン(カンボジアの二弦ギター)を弾くことができ、叔父はクメール・ルージュ統治以前に結婚式用のバンドとラコーン・バサック(カンボジアの民衆歌劇)のグループを率いていた。
子どもの頃、村のそばの草原で牛の見張りをしている時に、遊び仲間の前でシャベルを使ってチャペイ・ダン・ベンを弾く真似をしたものだ。
1972年までにはチャペイ・ダン・ベンを実際に弾けるようになり、時々家族のバンドに同行して村々で演奏した。クメール・ルージュ統治下では、タバコの葉を植える移動機に乗って働いた。また、クメール・ルージュの兵士たちのためにチャペイ・ダン・ベンを弾いて歌うこともあった。
1978年にベトナム人とクメール・ルージュの兵士たちが夜中に戦ったことがあり、兵士たちは人々をプノム・トーチという山に一緒に行かせた。この不穏な状況下で逃げるうちに、ハーン・オンは楽器を全て失ってしまった。
1979年の初頭、ハーン・オンはタイとカンボジアの国境にあるスラス・カエウ・カムポンに逃げた。その途上で疲れ果て、飢えたりマラリアに罹ったりして、多くの人が命を落とした。彼の父もそこで亡くなった。
収容所では食べ物は十分にあったが、仕事はあまりなかったので若い人たちの間では恋愛が盛んになった。彼らは結婚を望むようになったので、ハーン・オンは結婚式で演奏するバンドを組むことができた。
1日に5組から10組くらい結婚するカップルがいたが、収容所にいたクメール・ルージュの兵士たちは、人々が結婚することを許さなかったので、式は早く終わらせなければならなかった。
1カップルあたり、彼は15タイバーツ(今日の75セントほど)を稼いだ。収容所では、薪と牛乳缶を使ってバイオリンやギターのような弦楽器を作り、捨てられたネガフィルムをバケツに張ってドラムを作ったことを彼はよく覚えている。
1992年にハーン・オンとその家族はニュージーランドへの再定住を許可され、彼は楽器を持参したが、空港の税関で全ての楽器は長い時間調べられた。というのも、一部に蛇の皮を使っていたからである。
ハーン・オンはこう話す。「避難民である私たちは、動物のような気持ちでした。新しい土地でのルールを何も知らなかったからです。」ニュージーランドで彼と息子はチャペイ・ダン・ベンを2本作った。彼の好きな楽器はチャペイ・ダン・ベンである。それを演奏する度に今は亡き愛しい父親を思い出すからだ。