この場所で写真を撮っている人たちを不思議に思う人もいるかもしれない。この東屋こそが、映画「言の葉の庭」の舞台である。ひとつの作品によって、この場所にコンテキスト=物語が生まれ、それが作品を見た人にとっての物語となったのだ。それだけではない。作品は新しい「風景の見方」を提示してみせた。それによって、映画を観た人にとっては、この東屋が美しいと思える風景のひとつに変化した。こんな話がある。浮世絵師・安藤広重は「東海道五十三次」において、旅の途中にある風景を絵画にした。そうして、「風景とはこのような視点で見ると美しい」という視点を多くの人にもたらしたという。現代でいえば、絶景写真がもたらした見方と同じだろう。絵画や写真によって、人は風景の見方を学ぶ。その知見があることで、実際に見る風景もまた美しいと思えるようになる。言の葉の庭をまだ観ていない人は確かめてみてほしい。映画を観る前の風景と、映画を見た後の風景の、その変化を。
アニメを観た人は、そこで見た風景を重ねずにはいられない。しかし、現実はアニメほど美しくない場合もある。その原因のひとつが「風景の引き算」によるもの。たとえば、東屋の中央にある筒状の灰皿。これは、アニメの中の東屋では存在しない。「言の葉の庭」にとって、このとってつけたような灰皿は不要なものだった。そうやって、実際の風景から余分なものを取りのぞいて、より美しく描いているのがアニメ。実写だとこうはいかない。心象風景もこれと同じ。目に映るものすべてを見ようと思わなくていい。いらないものは消して見てもいいのだ。どのみち、記憶に残る風景は、写真のようにすべてを焼きつけるわけにはいかないのだから。