夕方になると戦は一時休戦となり静けさが漂う。
陸地で疲れを癒す源氏のもとに、沖から平家の小舟が現れた。その小舟の舳先には扇がこれ見よがしに掲げられている。「この扇が射抜けるか」と源氏をあおっているのだ。
失敗すれば源氏の恥。しかし、遠く船の上で波に揺られる小さな的を射るのは並大抵のことではない。「誰かいないか」と義経は臣下に声をかけるも、誰もが尻込みをする。そこで名前が上がったのが「飛ぶ鳥の3分の2は射落とす」とうたわれた弓の名手、那須与一である。
義経は与一に矢を射るように命じるが、与一の腕を持ってしても難易度が高すぎる。ためらっているうちに「嫌なら帰れ」と義経の怒号が飛ぶ。そこで与一は決心する。「矢を扇の的に討てなければ──」と、息を吸いこんで、声が震えないよう言葉を吐く。「私はこの場で自害する覚悟です」いかなるときも武士は武士。その毅然とした態度に、義経もうなずく。
与一は近くの大きな岩を見つけた。狙いを定めるのにぴったりだ。与一は岩に足を乗せて踏ん張り、まなざしを扇の的に注ぐ。扇の的は揺れている。それでも、決心が揺らぐことがあってはならない。与一は矢筒に手を伸ばす。使い慣れた矢が指先にふれたが、それではなく、意を決して鏑矢をつかんだ。瞬間、まわりから悲鳴に近い声があがる。鏑矢は笛がついた音が鳴る弓矢。余計なものがついているぶん、矢の命中率は下がるのだ。命をかけた大一番、みごと成功すれば、末代まで名が残る。
あたりは静寂に包まれていた。その沈黙を突き破るように鏑矢の音が鳴る。矢は美しい弧を描いて海に沈んでいく。その矢を最後まで見ているものはいなかった。扇が空高く舞い上がっていたからだ。与一は見事、扇の的を射抜いたのである。空を舞う扇がひらりと海に落ちたとき、大きな歓声があがった。源氏だけではなく平家からも。それほどの偉業であった。
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のちに屋島を訪れた人々は「この岩に与一が足を乗せた」と言い伝え、ありし日の与一の葛藤に心を寄せた。