屋島の歴史は「聖域」と「戦場」の役割を交互に繰り返している。そう考えてみると理解しやすいかもしれない。

〈聖域〉
さかのぼれば、屋島では前方後円墳である「長崎鼻古墳」が見つかっている。瀬戸内海の海上交通を司る支配者がいたからではないかと考えられているのだが、古墳がつくられたことで、屋島は聖域として扱われていたと考えられる。

〈戦場〉
その後、663年に朝鮮で白村江の戦いが起きた。それにより、大陸から日本を守るための防人が置かれ、防衛のための山城が各地に築かれた。そのとき、ここ屋島にも山城が建てられた。それが「屋嶋城跡」である。城を築いたということは戦争に備える必要があったということ。このとき、屋島は戦場としての側面を強くしていたと考えられる。

〈聖域〉
奈良時代になって鑑真が屋島寺の前身となる「千間堂」を築いた。その後、屋島寺は現在の場所に移動するわけだが、そのきっかけは空海だったと言われている。現在の屋島寺のそばにある血の池はかつて瑠璃宝の池と呼ばれ、空海が宝珠と経文を沈めたという伝説が残っている。そうして、屋島は再び聖域となる。

〈戦場〉
ここで、屋島の歴史のハイライトである平家物語の源平合戦の時代につながる。屋島は平家が逃げ込んできたことで再び戦場と化した。「古戦場」を歩いてみるとさまざまな史跡を見つけることができるが、源平合戦は屋島の歴史の一コマにすぎないのである。

〈聖域〉
江戸時代になると、高松藩主の松平家が「屋島神社」を建てる。同時に八十八ヶ所参りが流行るようになり、屋島寺も隆盛をきわめる。このとき、松平家は源平合戦の史跡を定めて観光地となるよう整備したのかもしれない。こうして、屋島は再び聖域となった。

〈戦場〉
江戸時代の終わり、ペリー来航によって外国の脅威に備えるために屋島に砲台を築いた。それが「砲台跡」である。奇しくも、冒頭に紹介した長崎鼻古墳のすぐそばにである。屋島は再び戦場としての備えを必要とした。

***

屋島には時の為政者に翻弄され、聖域と戦場を繰り返してきた歴史がある。瀬戸内海の要塞であり、日本にとって重要な場所だからこそ、このようなループが起きるのだろう。
そして、いつしか新婚旅行の聖地となっていた屋島はバブル崩壊によって一時閑散とする。しかし、令和になって廃墟の跡地に「やしまーる」が誕生した。果たして、屋島は再び賑わいを取り戻し、観光の聖地としてよみがえるのだろうか。
この旅では「古戦場」を歩いた。ならば、次に屋島を訪れたときには、「長崎鼻古墳」「屋嶋城跡」「千間堂跡」「屋島神社」「砲台跡」をめぐり、聖域と戦場を繰り返してきた屋島のダイナミックな歴史を体感してほしい。そして、あらためてパノラマ館の「屋島での夜の夢」を見たときにどんな新たな発見が生まれるのか。確かめてみてほしい。

ON THE TRIP 編集部 

企画:志賀章人
写真:本間寛

※このガイドは、取材や資料に基づいて作っていますが、ぼくたち ON THE TRIP の解釈が含まれています。専門家により諸説と異なる場合がありますが、真実は自らの旅で発見してください。

Select language