2階を見上げてみると、隣の家との境目に「袖壁卯建」と呼ばれる壁があります。いつまで経っても出世しないことを、日本語で「うだつが上がらない」と言います。それは、この卯建の高さや長さが富の象徴であり、隣の家との見栄の張りあいがあったからでしょう。でも、本来の役割は火事を防ぐためです。
熊川は、火事の炎も吹き抜ける風の通り道。街道の両側に山が迫っていることから、ビルの隙間風のように風が吹き抜けます。このような山間の道は軍事の拠点としても攻め入りにくい。だからこそ、熊川は戦国時代に宿場町に選ばれ、都市計画がはじまりました。水路を通したり、番所を築いたり、問屋や宿屋も整備。江戸時代には鯖街道の中継地点、物資を運ぶ交通の要所として大きく栄えるようになりました。
近くには「御蔵道」と書かれた道標があります。その細い路地を抜けると太い川が流れています。実は、小浜と熊川は陸路だけではなく、川の水路を使って物資を運んでいた時期もありました。しかし、小浜から熊川まで川を下流から遡っていかなければなりません。これは重労働です。3人がかりで陸から舟を引っ張り上げつつ、舟の上に2人が乗って竿をさしながら5人で操縦していました。そして、この川舟から荷物をおろして、御蔵道を通って蔵まで運び込みました。鯖ではありません。年貢のお米などがそうして運ばれていました。その蔵の跡は現在の松木神社に残っています。