北アルプスを背景に立つ漆黒の城。堂々とした天守は、全国に12しかない貴重な現存天守の一つだ。そして、五重六階の天守では一番古い。人々を惹きつけるこの城は、どのようにつくられ、なぜ残ったのだろうか。まずは歴史から紐解いてみよう。

松本城が黒い城になっているのは、豊臣秀吉側の城としてつくられたことと関係がある。松本城からは、金箔瓦(きんぱくがわら)が出土しているが、金箔瓦が出土している城は、すべて秀吉に従う大名がいた城だ。松本城やこれらの城をつなぐと、ちょうど江戸にいる徳川家康をみはる形になる。

1590年、天下を統一した秀吉は、家康を関東に移住させた。それとほぼ同時に、石川数正・康長(いしかわかずまさ やすなが)父子が松本城の天守をつくりはじめた。天下をとったとはいえ、最大のライバルである家康を監視し、いざ戦うときの城として、秀吉は松本城天守の建築を石川氏に託したわけだ。
石川数正については、なぜ家康を裏切り秀吉についたのかがとかく話題になる。この行動については、わからないことも多いが、近年の調査では、秀吉との戦力の差を理解していた数正が、戦を回避するため、あえて、秀吉側に移ったとの説が有力だ。

松本城の主、藩主は、最初の50年間、石川・小笠原・戸田・松平・堀田氏とめまぐるしく交代した。その後、80年間は水野氏の時代が続き、最後の140年間はふたたび戸田氏となり、明治維新を迎えた。歴代の藩主は23人にも及ぶ。

松本城をよりよく知るために、松本城にまつわる「問い」を、6つピックアップした。いっしょに考えてみよう。

その一 なぜ、武田信玄はこの城を選んだのか?

武田信玄が松本平に進出した際、拠点に選んだのが、松本城の前身にあたる深志城だった。なぜ、ほかの城ではなくこの城を選んだのだろうか。
信玄は、坂西氏の居城であった平地の深志城を信濃支配の基地とした。戦国時代、城は攻め込まれにくいように山の中に築く「山城」が多かった。だが、深志城は平地に築かれた「平城」だ。平城には、自分の軍が出撃する際の基地として使いやすいというメリットがあった。さらにこの地は近くを善光寺街道が通っており、定期的に市も開かれる交通と経済の要の地だった。そのため、信玄は北への進出を進めるための拠点としてここを選んだのだ。
それだけではない。戦国時代を代表する名武将は、城の防御も考え抜いていた。一体どうやって。

ヒントは、豊かな湧水。

松本城は二つの扇状地が重なる場所にあり、少し掘るだけできれいな水が湧き出てくる。信玄はこれを水堀とし、敵を寄せ付けない城を造ったのだ。また、城自体は平地にあるが、松本は北アルプスや筑摩山地に囲まれた盆地にある。雄大な山々も、守りのために利用したのだろう。

その二 なぜ、壁に穴が開いているのか?

黒い壁に目を凝らすと、正方形や長方形の穴が開いている。窓にしては小さいが、なんだろうか。

この穴は「狭間(さま)」と呼ばれる。敵が攻めてきた時、この穴から鉄砲を撃ったり、矢を放ったりする仕掛けだ。狭間は天守全体で115箇所、城全体で2000箇所以上あるという。
さらに、天守は火縄銃で撃たれても貫通しない分厚い壁を持ち、1階の周囲には、石落(いしおとし)と呼ばれる長方形の穴がある。水堀を渡り、石垣をよじ登ってくる敵をめがけて、石を落とすという寸法だ。戦いに備え数々の仕組みがあったのだ。

ちなみに、天守内部にある階段はとても急だ。攻め込まれないためにのぼりづらくしているのかと思ってしまうが、そうではない。当時の工法では、階段は隣り合う2本の柱の間に取り付けるのが一般的だった。柱と柱の間は1.97mと決まっていた。したがって、天井が高い階の階段は急になる。4階の天井は高さが4.1mもある。したがって、4階から5階にのぼる階段がもっとも急で、その角度は61度、一段の高さは最大40センチ近くにもなる。ぜひ、実際に体感してみよう。

その三 なぜ、天守に隠し階があるのか?

天守は何階建てに見えるだろうか? 外から数えてみてほしい。屋根の数を数えてみると、1,2,3,4,5。ということは、5階建てだろうか。しかし中に入ってみると、不思議なことに天守は6階まである。つまり、天守は、外から見ると五重なのに中は6階になっている。
これが、松本城が「5重6階」と言われる理由だ。屋根の数と階数が一致しないのは、天守では珍しくない。織田信長の安土城も同じ特徴を持っている。
天守の3階は、下から二重目の屋根のところに隠れていて、外からまったくわからない。隠された3階は窓がないため外から見えにくく、安全だと考えられていた。かつては非常時に武士が集い待機する場所として想定されていたが、実際には物置として使われていたらしい。

3階には、美しい模様が施された柱がある。光が入らない階に、あえて、この模様が入った柱を使ったのはどうしてだろう。質素な空間だからこそ、柱だけはこだわったのか……隠し階の暗闇には、想像力を掻き立てられる。

その四 城主はどこで生活していたのか?

隠し階の3階から4階に上ると、それまでと雰囲気が異なる空間が広がっている。天井が高く明るいこの階は、戦の際に城主が入る場所とされていた。

ということは、城主は普段どこにいたの?城主は天守で暮らしていると思っていたのではないだろうか。実は、天守は日常的に使われることはほとんどなかった。戦国時代には城の最終防衛拠点、江戸時代以降は権力の象徴として存在していたのだ。
城主がいたのは、御殿と呼ばれる場所。松本城も、本丸と二の丸に巨大な御殿があった。天守のすぐ近くにあった本丸御殿が、当時の城主の政治と生活の場だった。江戸中期の1727年、本丸御殿は火災で全焼。この時、本丸御殿は再建されずに二の丸御殿に政治と生活の機能が移転したとされている。御殿の内部は「表」と「奥」に分かれており、表は藩の仕事をする場、奥は城主と家族の住まいだった。「表」と呼ばれていた政庁は本丸御殿の南半分、「奥」と呼ばれていた住居は北半分に位置していた。そして、「表」と「奥」はつながっており、城主は行き来していた。
現在、御殿は残っていないが、本丸と二の丸には跡地がある。広い空間を眺め、思いを馳せてほしい。なお、二の丸御殿には、明治の廃藩置県後、しばらく県庁機能が置かれていた。

それは、月見櫓が、戦いの時代が終わって、平和な時代につくられたからだ。国宝に指定されている松本城の天守は、5棟の建物からできている。渡櫓、乾小天守、大天守、辰巳附櫓、月見櫓の5つだ。このなかで、異彩を放っているのがお月見をするための建物、月見櫓だ。

戦に備えた大天守に対し、月見櫓には攻撃や防御の仕組みがない。それどころか、朱塗りの廻り縁がめぐらされ、優雅な雰囲気さえ漂う。
どうして雰囲気が異なるのだろうか。それは、造られた時期が違うからだ。月見櫓ができたのは、松平直政が城主の時代。直政は、江戸幕府将軍・徳川家光の従兄弟。この頃、家光が善光寺詣りをすることになり、帰りに松本城に泊まるという話があった。これにともない、月見櫓と辰巳附櫓が新たに造られた。
結局、家光の善光寺参りは中止になり、松本城を訪れることはなかった。ただこの話があったおかげで、動乱の戦国時代の建物に平和な江戸時代の建物がつけられた。月見櫓は板戸を取り外すと、景色を存分に楽しむことができた。きっと松本の城主は、この場所から夜空に輝く月を愛でたのだろう。

その六 なぜ、江戸時代の天守が今日まで残っているのか?

江戸時代が終わり、明治時代になると、全国の城は廃れ、次々に壊されていった。現存天守が日本に12しかないのも、この時に多くが失われたためだ。
松本城も二度存続の危機を迎えている。天守を守ったのは、城を大切に思う二人の男だった。

一度目の危機は、明治初期のこと。当時、松本城の天守は売却され、取り壊されそうになった。これを聞いて動いたのが、市川量造。量造は新聞で人々に松本城の価値を訴え、天守を会場にして博覧会を開いた。

5度にわたる博覧会で、人々から寄付を募った。そして天守は買い戻され、取り壊しの危機を逃れたのである。
難を逃れた松本城だったが、明治中頃に再び危機が訪れる。天守が傷みはじめたのだ。

今度は小林有也という男が立ち上がった。有也は、二の丸跡地にあった松本中学の校長だった。修理の資金集めのため、有也は東京や大阪にまで足を運んだ。そして、できる限りそのままの松本城を保つ努力をしたという。
市川量造、小林有也。二人をはじめ多くの人々が、天守のために行動した。その結果、今も松本のシンボルとして守られているのだ。

松本に住む人たちは松本城が大好きだ。春は満開の桜の花のなかにたつ松本城。夏は青空のもと堀の水にうつる松本城。秋は真っ赤になってゆれる葉の間に見え隠れする松本城。冬は雪をいただいたアルプスを背景に凛としてたつ松本城。四季おりおりのお城の風景は人々の心をなごませている。そして、400年以上にわたって松本の人々の心象風景を形作ってきた。ここまで聞いてくれてありがとう。あなたの心の中で松本城はどのように映っているだろうか。

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