十五郎茶屋から駕籠立場跡、三木里側の八鬼山登り口を過ぎて名柄一里塚に来ました。三木里側の八鬼山登り口が八鬼山越え終点の道標63/63です。
名柄一里塚も桜茶屋一里塚と同じく紀州藩が300年ほど前につくった一里塚です。桜茶屋一里塚は土まんじゅうが二つあり完全な形で残されていますが、名柄一里塚は松を植えていた土まんじゅうは消滅して、山桜が植えられていた土まんじゅうだけが残っています。
三木里の人たちは、道路の無かった時代は尾鷲の病院まで病人をタンカに乗せて八鬼山を越えたといいます。はたまた映画を見るため朝に三木里を出て夜に尾鷲から帰ってきたというほど八鬼山を行き来した逞しい人々でしたが、八鬼山を裏山と呼んで「裏山なんか見たくない」と言われることからやはり難所であったことが感じられます。
尾鷲節の「ままになるならあの八鬼山を鍬でならして通わせる」の歌詞は三木里の庄屋の娘お柳と尾鷲の大工・喜久八のままならぬ恋を歌ったものですが、険しい八鬼山を鍬でならすことができたなら二人は自由に行き来できたのにという言葉の中にもその苦労が偲ばれます。