浅野家の家臣たちがいなくなった赤穂城はその後、どんな歴史を辿ったのでしょう。
浅野家の代わりに永井家がきましたが、すぐに異動となり、次に森家がやってきます。それから幕末まで森家の支配が続きます。森家は浅野家に比べると力が小さかったので、城や城下町も縮小。空き地や田んぼが増える一方でした。もしも浅野家の支配が続いていれば赤穂駅に新幹線が通っていたと言う人もいます。しかし、大きな開発がされなかったことで城郭全体がきれいに残り、珍しい城跡として現在に受け継がることになります。
そして、時代の変化に負けず、赤穂で変わらず栄えているのが塩作り。天守台から見える煙突のひとつは塩作りの工場で、現在でも国内産の塩の20%は赤穂の塩と言われています。
赤穂を見渡せるこの場所で、今一度、「なぜ浅野内匠頭は吉良上野介を斬りつけるに至ったのか」その理由を想像してほしいと思います。さまざまな説がありますが「赤穂の塩作りの技術を吉良に盗まれたから」、あるいは「教えてくれと言われたのに教えなかったから嫌がらせをされた」という説もあります。あなたはどんな想像を思い浮かべるでしょうか。