日本一の繁華街だった浅草。

浅草寺の観音様を目指して古来よりたくさんの人たちが訪れていた浅草。庶民的な寺であるがゆえに、厳格で静粛な「ハレ」の聖地というより、どちらかといえば俗で猥雑な「ケ」のある身近な繁華街だった。

たとえば、江戸時代の観音堂には「絵馬」が張り巡らされていた。絵馬には趣向を凝らした絵が描かれていて、それは、当時の画家にとっての展覧会。人が集まる場所に展示することで腕を競いあう側面があった。

ほかにも、奥山と呼ばれるエリアには全国から大道芸人が集まっていたし、猿若町には芝居小屋が立ち並び、歌舞伎役者や作家が暮らしていた。いわば芸能人に会えるスター街道である。少し歩けば日本一の遊郭「吉原」もあった。浅草は日本一の歓楽街でもあったのだ。

なぜ、渋谷でも新宿でも銀座でもなく、浅草だったのか。もう少し詳しく物語をひもとこう。

浅草は江戸の中心部からは距離がある。そのため、もとは「郊外」という位置づけだった。しかし、江戸と浅草のあいだに「蔵前」という金融拠点が生まれたことで状況は変わりはじめる。

江戸時代はお金ではなく、お米で給料が支払われていたが、それゆえに隅田川沿いに米を保存する蔵=銀行をつくり、必要に応じて船で運搬、流通させる必要があったのだ。蔵前がその拠点に選ばれたことで、江戸からのヒト、モノ、カネの往来は加速する。やがて、蔵前には小切手をあつかう金貸しも生まれて荒稼ぎをする者もあらわれた。

ちょうどそのころ、江戸の中心部で火事が発生する。焼け野原になってしまうほどの大火事だった。それを機に、幕府は当時は江戸にあった吉原を「郊外」に追いやった。遊郭と並んで「江戸の風紀を乱す」と言われていたのが芝居小屋。歌舞伎である。幕府はこれも浅草に追いやったのだ。

浅草寺、遊郭、歌舞伎。これらがそろった浅草は娯楽の一大拠点に。蔵前の金貸しもまた、近所にお金を使える場所ができたことで羽振りよく消費した。そして、浅草はますます発展を極めていく。

めくるめく物語のある旅、第2章。

明治維新が起きると、政府は浅草寺の土地を1~6区に整理する。奥山の大道芸人は「6区」にまとめられ、電気、地下鉄、オペラ、ストリップ劇場など、最先端の近代文化も取り入れられていく。その象徴となったのが凌雲閣=浅草十二階。日本初のエレベーターが導入された明治のスカイツリーである。映画館発祥の地にもなり、戦後の最盛期には30館が建ち並ぶ勢い。いかなる映画も封切りは必ず浅草で行われ、その評判を見て全国に配給されたという。

渋谷でもあり、新宿でもあり、銀座でもある繁華街。浅草こそが若者の町であり、文化の中心地。そういう時代が戦後まもない時代まで続いていたのだ。

しかし、風俗禁止法によって吉原がすたれ、歌舞伎の芝居小屋も歌舞伎座に移転。浅草6区の映画館や芸人文化も、テレビの普及によって勢いを失っていく。「浅草もずいぶん寂しくなった」と言われて久しいが、また最近になって浅草が見直されはじめた。

時代の最先端であることを新宿や渋谷にゆずったかわりに、昔ながらの暮らしやレトロな町並みを残していたからである。それに、浅草寺を訪れる人たちは、昔と変わらず、ここにいる。

「君よ、散財にためらうことなかれ。君の十銭で浅草が建つ。」

これは、1923年の関東大震災で瓦礫の山と化した浅草に、誰からともなく立てられたという看板にあった言葉。浅草が浅草であり続ける、浅草庶民のスピリットがここに詰まっているように、ぼくは思う。

京都や奈良に行けないから浅草で。そう思っていた人はむしろラッキーかもしれない。浅草には日本的なるもの、ジャパンなるものが、高度なレベルでかつコンパクトにそろっている。寺も神社もお祭りも、歌舞伎や落語、風俗も。寿司や天ぷら、蕎麦、すき焼きといった日本食も。それらは決して無くならずに、浅草にあるのである。

さぁ、浅草の旅はこれからだ。旅の続きをめくってみよう。






    ON THE TRIP 編集部

    文章 志賀章人
    写真 成瀬勇輝 志賀章人
  声の出演 五月野あずみ

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