浅草寺
参拝が物語になる
ひとつの物語を知っているということ。それが、その旅の理解を大きく変えることがある。たとえば、浅草寺のこんな物語。
およそ1400年前、推古天皇の時代のこと。浅草は、隅田川の河口にある小さな村だった。そこで、漁師をして暮らす檜前浜成と竹成という兄弟がいた。
ある日、隅田川で漁をしていると、網に不思議なものがかかった。人のようなかたち。それに、どこか惹きつけられる。兄弟はそれを持ち帰り、村長である土師中知に見てもらった。
すると、村の知識人でもあった村長は目を見張った。「これは観音様の仏像ではないか!」その場で手をあわせて拝みはじめる村長。そして、自ら出家してお堂を建てることにした。
これが浅草寺のはじまりの物語。その仏像こそが、浅草寺のご本尊「聖観世音菩薩像」だ。ご本尊とは、お祈りをする対象で、その寺で最も大切な仏様のことをいう。つまり、浅草寺をめぐる旅とは、1400年前に漁師が拾って村長が拝んだ、その仏像に会いに行く旅なのだ。
浅草寺を興したのは、偉大な僧や時の権力者でもない。浅草は庶民の町と呼ばれるが、浅草寺もまた庶民の寺なのである。
それを知っているかどうかで、浅草寺の歩きかたは変わってくる。駒形堂にはじまり、雷門、仲見世、宝蔵門、五重塔、観音堂、浅草神社。
そこに物語があることで、スポットとスポット、点と点が線になる。文脈が道筋となり、歩くたびに「だからそうなっているのか」と理解が深まっていく。まるで物語のページをめくるようにめぐる浅草の旅を体験してほしい。
さぁ、物語でつながる浅草寺をめくってみよう。