90分で島を一周するならば、「01~07」を見てまわったところでタイムオーバーかもしれない。

しかし、知夫里の見どころは、これまで話してきたような地形、絶景だけじゃない。離島であるからこそ残された人々の暮らし、文化にこそ物語がある、とぼくたちは思う。

ここで、歴史を軽くおさらいしよう。

隠岐は「古事記」で、淡路島、四国に続いて3番目に生まれたと記されている。九州は4番目、本州に至っては8番目。隠岐はそれほど古くから歴史的に重要な土地として知られていたわけだ。
知夫里島にいつごろから人が暮らし始めたのかはわからないが、知夫里では古墳時代の古墳が多く見られ、奈良時代の書類にも「智夫(ちぶ)」の名が記されている。その後、1221年に後鳥羽上皇が、1332年に後醍醐天皇が隠岐に配流になるころには、流刑地として本土との行き来が確立されていた。さらに、江戸時代になると「北前船」という日本海を行き来する輸送船の寄港地となり、多い年には4000隻の船が隠岐に滞在。知夫里もまた日本全国の人や文化が行き交う地点として賑わった。

いつのころからか船が港に到着すると、乗組員からの感謝の印として塩水で握った握り飯が配られることになっており、ふだんは麦や芋しか食べられない子供たちは船が見えると一目散に港へ走っていったという。これは明治時代のエピソードであるが、ここから読み取れるのは、歴史は動いても島の人の暮らしは変わっていないということ。昔から山だらけで作物もあまり育たなかった知夫里島では、わずかな平地をなんとかやりくりしながら畑を育てたり漁をしたり。自給自足の暮らしが原則だったと考えられる。
しかし、明治の終わり。鉄道が普及するころには寄港地としての役目も終わる。船もまた大型化、機械化するにつれて、本土からさまざまな物が手に入るようになり、島の暮らしも劇的に変化していった。それは、つい最近の話なのである。

では、そのような歴史の中でどんな暮らしや文化が育まれてきたのか。まずは知夫里に「7つの地区」があることを覚えておこう。郡、大江、仁夫、多沢、薄毛、来居、古海。「08」以降は、どこをどの順番でめぐってもかまわないし、すべてを見てまわる必要もない。また、「★」マークのガイドは島で暮らす人たちに出会いインタビューした物語だ。こちらはぜひすべてを読んでみてほしい。知夫里は小さい島だから、あなたもきっとその人と出会うことになるだろう。

Next Index

知夫タクシーの仲野さん