「後醍醐天皇上陸の跡」で紹介した後醍醐天皇の物語には続きがある。

後醍醐天皇の南朝と足利尊氏の北朝が対立してはじまった南北朝時代であったが、後醍醐天皇が亡くなると南朝は弱体化。やがて北朝に降伏することになる。その経緯である。南朝の天皇は、北朝に対してある条件を交わしていた。その条件とは「これからの天皇は北朝の天皇と南朝の天皇を交互に出していく」ということだった。その条件があってこそ、南朝の天皇は北朝の天皇にひとまずその座を明け渡したのだった。

しかし、いざ交代の時期になると、北朝は約束を守らない。二代続けて北朝の天皇を立てたのだ。

そのことに反旗を翻した南朝であったが、あえなく鎮圧。南朝は完全に解体されることになり、南朝の天皇家である「教尊王」は隠岐へ配流となった。そんな教尊王のお墓がここにある。が、隠岐に配流となったことは確かだが、どこで亡くなったのかについては諸説があり、確かなことはわかっていない。

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