蒲田の街に夕日が落ちて、赤提灯がともる頃。京浜蒲田駅前通りの奥から、のんびりと歩いてくる人影があります。作業着の上下を着た、ちょっと猫背の彼は、蒲田の町工場で働く通称「テツ」さん。この物語の案内役を務める、架空の人物です。

大田区の工場は、昭和の終わり頃にはなんと9,000以上もありました。平成20年には約4,000にまで減ってしまいましたが、工場数と従業員数は今なお東京都の市区町村でトップを誇ります。4,000ほどある工場の8割が、従業員9人以下の小さな町工場です。

蒲田の街のにぎわいを支えたのは、町工場で働く職人さんたちだったに違いありません。最盛期に比べればぐっと工場数も減り、今ではテツさんのような町工場の職人とばったり出会うことは少なくなりました。でも、この物語の中では特別に登場していただき、ガイドをお願いしてみることとしましょう。それではテツさん、よろしくお願いいたします。

おう、よく来たな。おれはテツってんだ。よろしくな。

ところで、あんたはどうして蒲田にやって来たんだい? ……そうだな、観光するなら浅草に上野、買い物するなら銀座に新宿。わざわざ蒲田を目指してくる人間なんてのは今どき少ないのかもしれないねえ。

それでも、おれの親父がガキだった頃には「映画の都」なんて呼ばれたもんさ。小津安二郎って映画監督、知ってるかい? 代表作の『東京物語』 は1953年の映画だけど、今でもなお世界中で高く評価されているのさ。

その小津監督が若い時期を過ごしたのが、松竹蒲田撮影所、通称「蒲田松竹」だ。撮影所の開所は1920年(大正9年)。この頃の蒲田はまだ田んぼばっかりで、撮影所の隣は高砂香料の工場だった。スタジオにはそりゃあすごい匂いが漂ってきたって言うぜ。

それまでの日本映画といえば日活だった。スターが活躍する日常離れした物語だよ。でも蒲田松竹は、そんな日本映画をガラリと変えようとしたのさ。日本映画界からは技術も人材もなるべく受け継がないようにした。その代わりにハリウッドから直接エンジニアなんかを呼んでワザを取り入れたんだ。蒲田松竹で生み出された映画は「蒲田調」と呼ばれたもんさ。

主人公は大スターなんかじゃない。どこにでもいそうな人間を取り上げて、母親の愛情や労働者の姿を描いたんだよ。人生のやるせなさばっかりを見せるんじゃなくて、人間味のある温かさや明るさを映し出したのがウケたのさ。松竹蒲田で作られた映画は1,200本を超えるっていうからすごいじゃないか。

やがて無声映画の時代が終わって、映像と音を同時に収録する「トーキー」が主流になっていく。そんなもんだから、町工場ばっかりで騒音の多い蒲田じゃトーキーは撮れなくなっちまった。撮影所は1936年(昭和11年)に今の鎌倉市大船へ移ったんだ。

映画館もさ、昭和30年代には蒲田駅周辺だけで20館以上もあったんだよ。今じゃ「テアトル蒲田」と「蒲田宝塚」の2館までになっちまったが、それでも昭和の匂いのする、味のある貴重な映画館さ。商店街のど真ん中にあるってのもいいねえ。アニメもよくやってるから、お母ちゃんが子どもだけ預けて、映画見させてる間に買い物もできるんだ。

蒲田はさ、そんなふうに人間の暮らしに近い街なんだ。同じ東京でも、六本木みたいにシャレてはいない。この気楽さが、おれはわりと気に入っているんだよ。スターじゃなくて、あたりまえの労働者の街。蒲田調の映画みたいにさ。

さて、立ち話はこのくらいにして、ちょっと夜の街にでも出掛けてみようじゃないか。おれが案内するぜ。

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