壁をぐるりと取り巻くのは、熊楠自身が書いた世界一と言われる《履歴書》です。その長さ約7メートル70センチ、文字数にしてなんと約58,000字。前半部分は大正14年(1925年)1月31日から2月2日の3日間で一気に書き上げられました。後半部分は2月2日から19日にかけて書かれています。当時、熊楠は58歳。この長い履歴書は、日本郵船株式会社大阪支店副長・矢吹義夫宛に書かれた手紙です。
この頃、熊楠にはお金が必要でした。熊楠を中心に「植物研究所」を設立する計画が持ち上がっていたのです。発案したのは、柑橘類の研究をしていた田中長三郎でした。さらに原敬や大隈重信など、各界の著名人ら33名が賛同して発起人となっていました。
10万円を集めて財団法人化するというのが当初の計画でした。資金は7万円まで集まり、順調に10万円に到達するかに見えました。しかし、2万円の寄付を約束していた弟との間に深刻な行き違いが発生し、熊楠は弟からもらっていた生活費まで打ち切られてしまいます。
《履歴書》は、そんな植物研究所の構想から4年後に書かれたものです。募金の協力を依頼していた矢吹に、熊楠の履歴を提出するように求められ、それに応じて書いたものなのです。しかし、履歴とはまったく関係のない事柄に話題は次々と脱線していきます。幾つものテーマを縦横無尽に飛び回り、行きつ戻りつして入り乱れる。それは、彼が生涯をかけて打ち込んだ、研究のあり方とよく似ています。
さて、結局資金は10万円には到達しませんでした。熊楠は研究所を解散して、集まったお金をすべて返却したいとも主張しました。しかし、いまさら返すよりは、規模を縮めてでも研究活動を続けるべきだと説得されます。「南方植物研究所」という名前はあっても、最後まで他に研究員を置くことはありませんでした。
それでは、熊楠マンダラの扉をくぐり、《履歴書》にも語られている彼の人生をたどってみましょう。