「神童熊楠」の噂が和歌山の街に広まっていました。熊楠の可能性を感じた父は、商家には珍しく学問の道を進むことを許したのです。明治12年(1879年)、熊楠は開校したばかりの和歌山中学校に入学します。ここで、パネルとして展示されている《和歌山中学校での成績》表を見てみましょう。小学校では神童と呼ばれた熊楠でしたが、中学の成績はふるいません。明治16年3月の定期試験では、同級生7名のうち下から3番目。ちなみに、このとき最下位だった喜多幅武三郎は生涯を通した親友で、後に京都府立医学校を卒業し、医者となって開業しています。

1883年(明治16年)3月、中学を卒業後すぐに熊楠は上京し、共立(きょうりゅう)学校に入学します。共立学校は私立東京開成中学の前身で、大学予備門に入学するための予備校の役割を果たしていました。1年半後の明治17年9月、熊楠は難関の東京大学予備門に見事入学を果たします。《東大予備門での成績》も残っています。中学の成績表のとなりに展示されている明治18年9月の成績表も見てみましょう。総員113名中、及第66名、不合格47名という厳しい試験でした。熊楠は59位でなんとか及第しています。

この成績表をよく見ると、私たちが知っている名前がちらほらと登場します。まず、右から4番目の「塩原金之助」は、後の夏目漱石。熊楠から5番下の「山田武太郎」は山田美妙、下から3番目に見える「正岡常規」は正岡子規です。この他にも同級生には、斎藤緑雨、芳賀矢一、秋山真之らがいました。

子規のほうが熊楠より合計点が高いはずなのに、不合格となっています。これは、幾何で落第点を取ってしまったからです。東京大学予備門は大変厳しく、一科目でも基準に達しなければ落第となりました。大学の授業にも関心が持てず、ひたすら上野図書館に通って独り学んでいた熊楠は、入学から2年目の明治18年(1885年)12月に行われた第一次試験にて、代数で落第点を取って不合格となってしまいます。

子規のように、二度も落第しながら6年をかけてでも卒業するという道もありました。しかし、熊楠はそれを選びませんでした。落第した翌月からひどい頭痛に悩まされ、2月には故郷に電報を打っています。迎えに来た父と共に和歌山へ戻り、東京大学予備門を退学することとなったのです。

Next Contents

Select language