ロンドン時代、熊楠は孫文と知り合います。孫文は清朝を打倒し、中華民国を建設した革命家にして政治家。その頃、第一次共和革命に失敗し、ロンドンに亡命していました。熊楠と孫文が出会ったのは1897年3月16日。意気投合した二人はそれ以降、孫文がロンドンを去る6月30日まで、毎日のように会って食事をし語り合いました。
熊楠の日記帳を見てみましょう。そこには《孫文のサイン》が書き込まれています。孫文がロンドンを旅立つ別れの時に書かれたものです。「海外逢知音」(海外にて知音と逢う)という言葉は、中国の故事が由来となっています。「この世にたった二人だけ、優れた境地を知る者同士が出逢い、認め合えた」そんな喜びを意味するもの。このとき孫文は熊楠に2冊の本を贈りました。そのうちの一冊《原君原臣》は、孫文のつくったパンフレットであり、実物は南方熊楠記念館にあるこの一点しか世界に現存していません。
孫文と別れた3年後の明治33年(1900年)10月16日、資金のつきた熊楠はやむを得ず故郷の和歌山に戻ります。このとき熊楠は、33歳。両親は留学中に亡くなっており、神戸港に迎えに来たのは弟の常楠ただ一人でした。膨大な留学金を使い果たして帰ってきた熊楠は、蚊帳のようなボロボロの洋服一枚をまとい、学位はなく、持ち帰ったのは大量の標本と書籍ばかりでした。
日本に亡命していた孫文は、横浜で熊楠の帰国を知ります。いくつかの手紙を交わした後、孫文は熊楠に会うためだけに、はるばる和歌山までやってきました。わずか二日間の再会。その後も孫文が日本に亡命する機会はありましたが、三度目の再会は実現しませんでした。
「人の交わりにも季節あり」
孫文の死を知った熊楠は、そんなふうに漏らしたといいます。