一年中《生きている粘菌》を見られる施設は、ここ南方熊楠記念館だけでしょう。干からびたキノコのように見える標本も、適した環境に置かれれば、シャーレの中で動く粘菌と同じように再びにゅるにゅるとうごめきだすのです。

粘菌とは一体どのような生物なのでしょうか。まず、生息地は湿った森の中です。周囲の環境が良いと、アメーバのような姿になります。これを「変形体」と呼びます。変形体のときは、主にバクテリアを捕食しています。環境が悪くなると、今度は植物のように根を張って胞子を飛ばして繁殖します。このキノコのような姿を「子実体」と呼びます。

粘菌と呼ばれていますが、いわゆる「菌」とは違う生き物です。植物、菌、動物は、有機物を得る方法が一般的には異なっています。植物は光合成をして自ら有機物をつくりだします。菌の場合は、他の有機物を分解して吸収します。動物は、他の生物を捕食します。ときには菌類、つまりキノコのようなかたちになり、またときにはアメーバの姿で動物のように振る舞う粘菌は、このどれにも当てはまらないのです。

西洋の植物学では「何に分類するか」が重視されていましたが、熊楠が関心を向けていたのはそこではありませんでした。自分の採集した粘菌が新種であるかどうかも、熊楠にはどうでもいいことだったのです。

熊楠は粘菌の中に「生」と「死」を見ていました。動かないキノコのような状態を「死」と考えるならば、アメーバのような状態は、まさに「生きている粘菌」の姿です。しかし、当時の植物学者の視点で見てみると、アメーバの状態は吐き捨てられた痰にも似た「死」に等しい、取るに足らないものに過ぎず、そこからキノコが生えてきて始めて「生きていた」と喜んで観察するのだ、と熊楠は語ります。どちらが「生」でありどちらが「死」であるのか、それは見る者によってがらりと反転してしまうのです。

それは、仏教の『涅槃経』が説く生死と同じだと熊楠は言います。この世と地獄とは裏表。この世で罪ある人が死にそうになれば、地獄では新しい命が生まれそうだと喜びます。その人が息を吹き返せば、地獄では死産になってしまいそうだと嘆きます。いよいよその人が死んでしまえば、この世にいる仲間は嘆き悲しみますが、地獄では新たな命の誕生を祝うのです。

常に変化し続ける、生と死の裏表。生とは何か、死とは何か。その答えを熊楠は粘菌の中に探していたのです。

Next Contents

Select language