今や世界的なキーワードとなっている「エコロジー」という言葉を100年以上前に使い我が国の自然保護活動の先駆けと言われているのが南方熊楠です。それだけでも凄いと思いませんか。

「トーテム」という言葉があります。ある生きものが、自分たちの家との間に不思議な縁を持っていると信じ、その生きものの名前を代々の人名に名付けることをそう呼びます。その一族は、よっぽどのことがなければ、自分たちの名前に取り入れた生き物の命を奪うことはありません。熊楠の名前の「熊」と「楠」は、まさにこのトーテムでした。動物の熊、植物の楠。熊楠にとっては動物も植物も、「自分の外側にある自然」ではなく、まさに自分自身だったのです。環境が破壊されるということは、熊楠にとって、自分の身体が壊されるのと同じことでした。

和歌山県では明治39年(1906年)頃から、神社合祀が積極的に推進されるようになっていきました。神社合祀とは、日露戦争後におこなわれた全国的な政策で、多く存在する神社を統廃合し、神社にかかる補助金や神主の負担を減らそうとしたものです。熊楠が粘菌を採集していた神社林も、統廃合のために次々と破壊されていきました。憤った熊楠は、各方面の有力者に手紙で自分の見識を伝え、理解と協力を求める神社合祀反対運動を始めます。当時、政府の高級官僚だった柳田國男も、熊楠が協力を求めたうちの一人でした。

1910年(明治43年)1月28日、神社合祀反対運動のPRとして撮影された《南方熊楠林中裸像》という写真があります。42歳の熊楠は、真冬なのに裸で森の前に立っています。まさに森に生きる人といった印象です。熊楠が留学していた頃、アメリカでは新聞に写真を掲載する技術が進んでいました。写真が人々に与える力を、熊楠は理解していたに違いありません。情報発信の大切さをわかっていたのです。

しかし、反対運動はあまりスムーズには進みませんでした。林中裸像を撮影した年の8月、紀伊教育会による夏期講習会が開かれました。合祀を推進していた登壇者に直接思いを突きつけようと、熊楠は面会を申し込みます。待つようにと受付で言われ、「その間に逃がすつもりか!」と怒りを爆発させた熊楠は、ビールの酔いも手伝って、手に持っていた信玄袋を思いっきり会場の中に投げ込みました。取り押さえられた熊楠は家宅侵入の疑いで17日間勾留されます。そのときの手記が展示されている《田辺未決監入監中手記》です。熊楠は監獄の中でも書籍や経典を写したり、菌類を見つけたりして過ごしていました。証拠不十分で釈放が決まり、看守がそのことを知らせに来ると、「ここは誰も来なくて静かだ。その上涼しい。もう少し置いてくれ」と言って出ようとしなかったといいます。

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