「私、大きくなったらお妾さんになりたい!」
食堂『新月』の鍋焼きうどんは、西裏を訪れる人々の忘れられない味。飲み歩いた最後のシメは新月の鍋焼きうどんか、金寿司の寿司か、と言われたほどだ。
これは、そんな飲み屋街の中心にある新月で育った少女の話。
新月の居間には、1人で食事に来たお客さんがよく出入りしていた。向かいのキャバレーで働いていた「べべちゃん」も常連の1人。
新月でテレビを見ながら夕食を食べ、そのままそこで着替えを済ませ出勤するべべちゃんに少女は釘付けだった。長身で彫りが深くてかっこいいベベちゃんが「つけまつげは、こうやってつけるんだよ」と教えてくれながら、みるみるうちに美しい女の人に変身していくのは魔法のようだった、と振り返る。学校の友達も試験勉強と嘘をついてべべちゃんの変身を見に来ていたという。
また、普通はあまり聞くことのない「お妾さん」、つまり「愛人」を指す言葉も、彼女の周りには当たり前のように飛び交っていた。
実際、お妾さんらしき人も近くに何人かいた。その人たちはいつも着物を着て薄化粧をして、真っ白な割烹着を着ていた。水仕事で汚れた割烹着の母親たちとは少し違う世界の人。そんな印象を持たせる「お妾さん」という響きも、なぜか少女の心をわくわくさせた。
「私も大きくなったらお妾さんになりたい!」と、意味もわからず無邪気にそういった少女に、周りの大人はどんな説明をしていたのだろう。