大安寺
地下に埋まるは巨大なロマン
東大寺がまだこの世に存在しなかった時代のこと。大安寺は日本でいちばん大きな寺だった。それも天皇が建てた最初の寺であり、日本一の「格」を誇る寺だった──
「なんと素敵な平城京」で知られる710年の遷都。これは藤原京からの移動であった。このとき、4つの寺が藤原京から移設された。大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺。これは実際に「続日本紀」に書かれている順番である。この順番が重要なのだ。大安寺こそが最初に記載されるべき、いちばんの寺だった証拠だからである。
平城京は朱雀門から伸びる朱雀大路を中心に右京と左京に分かれていて、左京に大安寺、右京に薬師寺が置かれた。そして、外京に興福寺と元興寺が置かれた。ちなみに東大寺と西大寺が建てられるのは奈良時代の終わり。このときは存在すらしていなかった。つまり、大安寺と薬師寺こそが平城京の中心にあった寺であり、しかも、大安寺は薬師寺よりも大きな建物が立ち並ぶ、国家第一のお寺だったのだ。それは一体なぜなのか。
大安寺の前身は藤原京にあった「大官大寺」。大官とは「天皇=大王(おおきみ)」のこと。大きな寺という意味だけでなく、大王の寺という意味も持っているのだ。さらに元を辿れば、推古天皇の後を継いだ舒明天皇が「百済大寺」を建てた。これこそが天皇家が最初に建てた寺。これがのちに高市という場所に移されて「高市大寺」となり、そこからさらに移動をして「大官大寺」となったのだった。
そして、710年。奈良の都に移されてからは「大安寺」と呼ばれるようになる。これは奈良時代のはじめ、藤原不比等が大宝律令を出したころに重なる。藤原家の一員である不比等にとって、天皇家の冠を持つ「大官大寺」という名前の力を弱めたかったのかもしれない。それでも大安寺は奈良時代において国家を代表する寺として繁栄し続けたのである。
しかし、それにしては現在の大安寺は随分と地味である。そもそも、ほとんどの人には知られていない。その理由は、奈良時代が終わり、都が京都へ移ると同時に衰退が進み、一時は消滅したも同然となってしまったから。
いつしか農村となっていたこの場所で、発掘調査が行われたのは戦後の話。そのときになってようやく大安寺の大きさがはっきりとわかってきた。しかし、すでに住宅地ができあがっていたため、大規模な発掘調査は未だになされていない。あなたの足元には今なお巨大なロマンが埋まっているのだ。